ここのところ、文豪による「文章読本」を何冊か読んで来て。
多分これで4冊目?5冊目?吉行淳之介編のやつは数に入れないとすると4冊目かな。
川端康成(仮・中村真一)、谷崎潤一郎、丸谷才一。
この中で一番響かなかったのがこの三島由紀夫のものでした。
うーん。日本文学を平安時代の女房文学の流れでとらえるというのは、
まあ……ないことはない気はするけど、その場合、その前の万葉世界とかはどうなるのかなあ。
懐風藻は漢詩だから、日本文学と違うという意見もあるかもしれないが、
漢詩の形式を借りたから日本文学ではないといえるかどうか……。
そのすぐ後に、「男性的な世界、つまり男性独特の理知と論理と抽象概念との
精神世界は、長らく見捨てられて来たのであります」と書き、「平家物語」「太平記」を
挙げて、
「そこで描写される男性はまったくただ行動的な戦士、人を斬ったり斬られたり、
馬に乗って疾駆したり、敵陣におどり込んだり、扇の的を矢で射たりするような、
だた行動的な男性の一面が伝えられるにすぎませんでした」
うーむ。平安時代の女房文学を高く評価するのはいいけど、「平家物語」と「太平記」を
出して、それをただただランボーな男性原理のみ、というのは違和感があるなあ。
「太平記」は知らんけど、「平家物語」には人の世のあはれがあるじゃないか。
……というような感想を抱く内容が多かったので、あんまり納得出来る本ではなかった。
この本の中では、日本では韻文は和歌から、散文は和歌の詞書から発展してきたそうだ、
と書いてあるんだけど、これはほんとですか?
今まで「日本の文章のはじまり」というのを意識したことがなかった――というか、
普通に万葉集とか懐風藻とかから始まると思っていた――この部分は新鮮。
新鮮ではあるが、ほんとなのかなあ、と疑問でもある。
どうしても詞書は和歌のオマケという意識があるからね。
でもたしかに詞書には長いものもあるし、それは物語にはとても近いとも感じる。
とはいえ……これはオマケ意識が抜けてないだからだろうか。
そして日本語の文章の始まりに、漢詩文はやはり無視はできないと思うのだが……
明治期まで少なくともインテリにとっての必須科目だった漢詩なのに、
この本では立ち位置が弱い気がする。
三島由紀夫は英語は堪能だったし、おそらくあと2つや3つの外国語はかじってた気がするが、
明治期の西洋語の概念の導入をここまで言うのに、漢文はもっと分析しないのか?と。
疑問がある。
ただ、近頃の読者は文章を味わわずにストーリーだけを読む、というのは共感したなあ。
なんだったら、最近はストーリーも読まずに設定を読んでいる。
設定しか書いてない書き手、描き手もある。アニメでよく感じる。
文章の良さを味わう人がいなければ、文章の良さも消えていくしかないんじゃないかと
危惧しますが。
そして、三島由紀夫が自分に課しているのは「格調と気品」さもありなん。
そういうものを目指し、あれだけ明晰な文章を書いた人が、
――あんな風に死んでしまうんだよね。
人間。不可思議なるもの。

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