読み終わった時はけっこう感銘を受けて、考えた末に評価A(=えらい!)をつけたんだけど、
少し冷静になったら、話の作りはわりと類型的だな、と感じたのでB(=なかなか)に直した。
妻を癌で亡くした後、妻の大切さに気づき苦しむ初老の男とか。
自分探しの女とか。
戦争経験に苦しむ男とか。
わりとある設定でしょう。遠藤周作は上手いので、類型的でももちろんちゃんと読ませるんだけど。
(骨の部分を類型的だといってケナすのは、ほんとは無意味なことかもしれない。)
ところで、先に言っておくと「深い河(ディープ・リバー)」はガンジス河のこと。
この本で、ここだよ!と思うのは、大津的キリスト教の考え方。
大津は、自分探しの女の大学の時の知り合いで、親の教育によるキリスト者。
女は大学時代に、初めから遊びで大津を誘惑し、軽い気持ちで棄教を迫る。
大津はその時は揺らいだものの、結局信仰は捨てず、女が大津を捨て、
音信も不通になって何年もたった頃にはフランスのリヨンで神父になるための学校へ行っていた。
「どの道を通ろうが、結局辿りつく場所は同じ。全ての宗教はそういう存在だ」
たしかマハトマ・ガンジーの言葉としてこんな感じで紹介されていた。
こんなことを言う大津はフランスの神学校で認められない。
異端だと言われ、なかなか神父になることも出来ない。
大津は何年ぶりかで会った女に、東洋人としての自分は西洋人のキリスト教の信仰だけが
唯一正統と信じる考え方に同意できない、と苦悩を伝える。
そうなんだよ。
世界の宗教がいくつあるかは知らないが、そのうちの一つだけが正しくて、
他の全部が間違っているという考え方の、どこに根拠があるのかわからないよ。
地球上で偶発的にポコポコ生まれた人類。
その人類が気候風土に合わせて生み出したそれぞれの宗教。
暑い国には暑い国なりの、寒い国には寒い国なりの民族衣装があるように、
そこに暮らす人たちが一番イメージしやすい「神」でどこがいけないのか。
衣裳をとっかえたくらいのもんじゃないか。
イエスに祈ろうがアラーに祈ろうが、ブッダに祈ろうが、アマテラスに祈ろうが、
祈ることで救われ、周囲の人々をも幸福にし、よりよく生きることが出来るのであれば、
祈る対象の呼び方なんてどうでもよくないか。
いいじゃん。大きな存在にむかって頭を垂れる。そうすることで安心し謙虚になれるんならさ。
わたしは大聖堂でも神社でも寺でも御嶽でも関帝廟でも気分がいいぞ。
……と常々思っているので、大津の行動には「そうだよなあ……」と深く頷いた。
結局大津は最終的にガンジス河のほとりにいて、キリスト者として人々を助ける生活を
送ることになるんだけどね。
日本でキリスト者であることは難しいんだろうな、と思いながら読んでいた。
周囲は無意識的に多神教風土だし(初詣は神社へ、葬式は寺へ、結婚式は教会へ)、
山紫水明の国で一神教の厳しさは必要とされないように思う。
ただ宗教としては一神教の方が、より強い。
強いことが優劣を産み、優劣が善悪、正邪を一方的に決めてしまうんだよね。きっとね。
まあ、アメリカ人だったかカナダ人だったか忘れたけど、
日本に留学に来ていた人で、神社が好きで、通りかかるたびにお賽銭を上げて手を合わせる、
という人に会ったこともあるけどね。
「えー、キリスト教徒じゃないの~?」と言ったら「へへへ」と笑っていた。
この程度のユルさが好きだよ、わたしは。平和じゃないか。
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