【果てしなく、どうしようもなく、悲しいほど、凡作。】
やはり原作好きは見てはいけない映画だったのだろう。
駄作とは言わない。映画だけを見れば、あれでもそれなりだろうと思う。
でも、原作のいいところが全然活かされていない。あれで「博士の愛した数式」と言われると辛い。
原作の一番いいところ。わたしは「奇跡の邂逅」だと思っている。
映画制作者は、家政婦さんの人物造型を、なぜあの程度にしか描けなかったのか。
たしかに原作では、本人の視点で淡々と書いているし、本人の自己評価が
「特にとりえのない、頭がいいわけでもない」普通の女性、なので、
前面にわかりやすく出てないとは思うが、この人の造型って、実はものすごく重要ですよ。
博士の存在は特徴的に位置づけられている。まあ、フィクションの世界ではああいうタイプの
記憶障害は斬新というほどの設定ではないが、作中の存在としては派手。わかりやすく派手。
それに対して家政婦さん……名前、なんでしたっけ?(今、本が手元にない)
まあ、仮名として夏美さんとしましょう。彼女は地味で、一見、語り手としての存在でしか
ないように思えるが……
でも、あの話は「博士と夏美さんが出会った」奇跡を描いた話なんです。
それは「博士と人柄の良い家政婦さんが出会った」話とは全然違う。
夏美さんの前に、家政婦さんが九人替わったという設定があるが、それは話として許される数が
せいぜいそのくらいだったからであって、本当は9999人でも良かった。もっと多くても良かった。
つまり、夏美さんは1万人に1人の感性を備えた人として描かれるべきだった。
彼女は、博士を理解できる感性を持っている、という点において稀有でした。
いや、違う。……それも含めて、それだけではない稀有な存在。豊かな感受性。
そういう「博士」と「私」が広い世間で出会い、交流を持つ。絆を深めていく。
それはまるで、宇宙空間に漂う遊星がお互いの重力範囲に入って相互に回り出す、というくらい
稀有なこと。奇跡なんです。
でも映画では、彼女の稀有な部分――誰もが認める長所にはなり得ないけれど、密かに、
しかし激しく輝く美質である――が、まるっきり描かれていない。
そりゃ映画でそういう部分を表現するのは難しいと思う。でもそれを描かずして、
あの作品を映画化する必然性があるだろうか。
そう、それに。
博士と夏美さんの関係はなんであんなに薄っぺらくしか描かれないの。
二人の間柄は、とても濃密なものであるべきなのに。
これは結局、「奇跡の出会い」に集約されることだけれども、彼らの関係は重層的でしょ。
雇用者(ではないけど)と被雇用者。先生と生徒。父と娘。友達同士。恋人同士。擬似母子関係。
そういう複雑なものをあくまでも繊細に幾層にも重ねて、そこに醸し出されるものが好きだっていうのに、
そんな部分が全くないではないか。
わたしはこの話の繊細さを愛した。なのに、映画では繊細なところなど全くないとはどういうことだ!
もっとハードルを下げた話にしても、深津絵里は色々苦労してきた人には見えませんでしたからねえ。
もちろん苦労してきた人が常に深刻な顔をしているとは限らない。でも、自分も悩んで生きて来た人なら、
冒頭の義姉との会話でも、もうちっと違う反応になるんじゃないですか。
深津絵里がやったのは、ただの可愛いお嬢さんです。人間的な深みが全くない。
天真爛漫に、苦労なく育ってきたお嬢さんにしか見えない。母親にも見えなかったからなあ。
脚本も悪いが、もし演技力のある女優さんだったら、もう少し違っていただろう。
原作の一番の肝は以上のようなところだと思っているので、
1.浅丘ルリ子演じるところの義姉の出すぎも気にかかった。
あれは匂わせるくらいであるべきだった。台詞にしてしまうと陳腐だ。
2.吉岡秀隆を持って来て、教室との二元中継、しかも学生の(しょーもない)台詞を多用する。
これでテンポがものすごく悪くなった。流れをぶったぎっていたでしょう。
この辺り、どうしてもダメだった。もう見てて情けなかった。苛々して、途中でよほど席を立とうと思った。
※※※※※※※※※※※※
寺尾聰は、外見上はわたしのイメージとは違うんだけど、やはりなかなか。味があった。
もう少し頼りなくても良かったと思うんだけどね。
子役には、出来ればもう少し演技力を期待したかったところ……。まあ、脚本上今ひとつ
見せ場も少なかったから、しょうがないか。
ほんとはルート君は、夏美さんのまた別の側面として、もっと味のある描き方をして欲しかったけど。
ただ、「博士の愛した数式」という映画の部分としてではなく、単なる視聴の対象として、
吉岡秀隆が喋っていることは面白かった。パスツール?が十六歳で友愛数を発見した……とかね。
それから、原作でピンとこなかった「オイラーの定理」の部分は、このおかげでほんの少し
「ほう」と思う部分があった。だが未だに原作での「オイラーの定理」の意味がよくわからない……
野球との結びつきが弱いなあ。プロ野球観戦を少年野球観戦に変えたのは、予算上からも
手間からもなかなか良かったと思うけど、博士にノックをさせるのは間違っている。
博士は身体性とは縁の切れた存在であるべきだ。彼の野球への愛は、あくまでもデータという
数字をベースにしたものであって、その辺りが全然出てこない。
全体的に、博士の数学度が足りないのもなー。わたしは完全文系なので、
数学を基礎にした思考法なんて想像も出来ないけれど、
それが博士の造型の根底をなすんだからさ。ちゃんと頭をひねってくれないと。
「1」の話とか、あれは変でしょう。わざわざ入れるなら、ちゃんとそれらしい問答を用意しておけ。
原作では語り口に誤魔化されて、あまり追及する気にはならないんだけど、
記憶のシステムに関する穴は、けっこうありそうな気がするなー。
映画では、最後の頭ナデナデはやっぱり無理かと……。いかに頭の天辺が平らなのは変わってないとしても、
昔は「子供」だったからでしょう。成長したルートは博士にとって「ただの大人」なんだから……
「足のサイズはいくつかね」から始まる可能性の方が高い。
久々にパンフレットを買わずに帰って来た映画だった。
あー、がっかりしたがっかりした。見終わってすごく悲しかった。
コメント