ううう。わたしが最も読んではいけないものを読んでしまったぁぁぁぁぁ……
訳者の浅羽莢子さんには、シャーロット・マクラウド「セーラ・ケリングシリーズ」を
訳してもらった恩がある。それもあって、わりと無防備に(信頼感をもって)読み始めたのだが……
十数ページで“ひとりよがり”という単語が目の前にちらつく。
30ページ辺りで“自己憐憫”という言葉が浮かんで来る。
序章はこの調子でいくにせよ、まさか全部がコレなわけはないだろうと思いつつ
読んでいくが……100ページ過ぎても文章が切り替わらないんですけど!
全編コレなんかい!!
いやまあ、大変にツラかった……。
歯に衣着せず言えば、自己憐憫の文章の垂れ流し。
意識の流れ手法に似て非なるもの。意識の川を流れ下る断片の、ひたすらな羅列。
カバー見返しのアン・ライスの簡単な経歴を見ると、
「娘の死をきっかけに創作活動を開始。アメリカではゴシック小説の女王と言われている」
と書いてある。
するってえと、あれかい?これはまさに娘の死の直後の第一作で、本来は自己救済のための文章が
間違って出版物になってしまったってことかい?
……いやー、そういうことなら理解は出来なくもない。
が、ここまで抑制の箍が外れた文章って商業作品としてどうなのよ?
その答えを求め、アマゾンのレビューを読んでひっくり返りそうになった。
レビューはもちろん個人の感想なので、思ったことを堂々と書いて良いのだが、
この本は「アン・ライス節が苦手な人でも問題なく楽しめる」本なのか……
ってことは、他の作品のアン・ライス節って、――どんだけスゴイんだ?
出版年を確認すると、別にこれが最初期の作品ってわけじゃないようだしなあ。
プロとして書いて、このはっちゃけぶりはものすごい。
ざく読みにしても最後まで読もうと努力したが、……ちょっと無理。
それでなくても今回、図書館の本の“借り合わせ”に失敗し、けっこうツラい本が並んで
しまったというのに……
止めよう。
これを読み終わったところで、わたしの人生がほんのちょっとでも豊かになるとは思えない。
112ページで戦略的撤退を決意しました。
……まあこういうの、好きな人は好きでいいんだけどさ、
いくらゴシックにせよ、ゴシックにもほどがあるというもんじゃねーかい?
ただのゴシックというより、ゴシック・ロリータ的畸形感(というよりフェイク感)がある。
本の惹句は「アン・ライスが奏でる、癒しの音楽」そして
「アン・ライスが自らの人生の苦悩をこめて築いた、感動の幻想小説!」なのだが、
……癒しにならねーだろ、コレ。
これが癒しとなるなら、アメリカの精神生活ってどれだけ歪なのか、って話ですよ。
しかし罪なことをしましたね、浅羽さん。
この作品を訳出したということだけでも十分罪だと思うのに、
解説で篠田節子の「ハルモニア」と「カノン」を引き合いに出し、併せて読むことを推奨している。
……絶対読まねー!こんなんと引き比べられる本など読む気にならん。
ま、わたしは多分、篠田節子の小説はおそらく苦手だろうと遠くから見ているので、
彼女の作品を読もうとは元々思ってないんだけどね。
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