こないだはこの人の「ユーラシアの風景」という旅行エッセイを読んだ。
今回は初小説。
――の、つもりで読んだが、小説ではありませんでした。
うーん。あえていうなら哲学散文詩?哲学というのとは違うか。
いい意味で雑多な思考を、わりあいに詩情を湛えた散文で書き表している。
文章自体はわりと面白く読めた。テーマやスタイルに共感出来ないにも関わらず。
「ユーラシアの風景」を最初に読んでしまったのが失敗だったな。
それで前歴の特派員というイメージが強固に定着してしまった。
なので、この定型のない作品が、単に作家としての能力の不足から来るものなのか、
それとも十分な実力を持った人がそれでもかなり苦労して試みた新しいスタイルなのか、
冷静に判断出来なかった。そういう意味では辛かった。読み手としては。
小説なんだろうと思いながら読み始め、しかし早い段階で散文詩へと受け止め方を
シフト出来たので、それはあまり苦労しなかった。
話の内容がどんどん変わっていって、細切れであるのも散文詩だと思えば可。
だが、どうしても乗り越えられなかった部分がある。――引用の多さ。
引用が多すぎる。大部分が引用で構成されている章もあったと思う。
ここまでの多数、長文にわたる引用は、作品としてどうか。
何行かで終わる引用ならば、元の作者の名前はすでに視界に入っているし、
最初から引用だと思って読めるが、何ページにもわたる引用の場合、
(そして著者と文体がさほど離れていない場合)
てっきり本文だと思って読んで、最後に原典名が出てきて引用だったのを知ることが何度かあった。
これは反則であろう。
引用は、そう安易に使ってはいけない手段だ。
ずっと前に、夢枕獏のたしか「上弦の月を食べる獅子」だったかと思うが、
宮沢賢治を、それというはっきりした記載のないまま本文に使っていたのに
反発した記憶がある。それよりもこっちの方が引用度がひどい。
まあ、これを引用したくなる気持ちはわからないでもない引用だけど、
そこをこらえて自力で道を切り開くのが作家の作家たる所以ではないのか。
作は作る。ものなのだよ。
この辺を、やっちゃえ、でやってしまうなら、作家として評価出来ない。
ただし普通の文章部分は、わたしは好きだったんだよな。
ブンガク傾向が少ない分、一般読者であるわたしにもついて行ける程度の抽象性というか。
なので、引用をなくして、もう少し全体の体裁を整えて
(やはり少々あっちこっち行きすぎ。アマチュアっぽく見えてしまう。)
なんとかすれば、安心して読めるようになるのかもしれない。
今のままだと“なんちゃって作家”ではないか?という疑いが消えないよ。
まあ、もうお亡くなりになっているんですけどね。
集英社
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