うーん、うーん、……ヨンデモ本?
この本は、――つまりは、わたあめをどう思うかという問題なのだ。
わたあめは甘い。ふわふわしていて口の中で一瞬で溶ける。
ざらめ100%なのでこれといった栄養はないし、複雑な味は一切なし。ストレートに甘い。
食べ物とすればただそれだけの物体。
だがわたあめが持つのは単に甘いお菓子としての意味だけではない。
わたあめと言えばお祭り。
――わたしが通った小学校のそばには神社がある。春に行われるこの神社の祭りが、
わたしたちは楽しみだった。その日は“当然”“全員”が放課後その神社へ出撃することになる。
待ち合わせした友達と落ち合う。普段は閑散としている広くもない境内は、
その日は参道から周辺道路からぎっしりと屋台が立ち並び、迷路のようになっている。
あふれるほど立ち並んだ屋台の迷路を何度も往復しながら、
お祭りのおこづかいとしてもらった金額で何を買うか考える。
クラスの友達と会って手を振ったり、好きな男の子が来てるかどうか確かめたり。
クレープや焼きそば。時々は水ヨーヨーや金魚すくい。お土産にいちご飴。
屋台はほとんどが毎年同じ顔ぶれらしく、ほぼ同じ場所に店を出す。
橋のたもとの狭い場所には焼きトウモロコシ屋。階段下には金魚すくい。この祭りへは
新参であるべっ甲飴屋は境内からちょっと離れた道路の方へいつの頃からか場所を確保していた。
そして参道の入り口、一番最初の屋台はいつもわたあめ屋だった。
有名でもない神社の、広いとも言えない境内での祭りとしては、規模は相当に大きかったけれど
イベントのない、屋台が出るだけの祭りは外部の人までを呼び込む引力はない。
結果として来るのは地元民だけだが、近隣の老若男女はかなりの確率で来る。
小中学生はおそらく毎年ほぼ全員、大人たちも多分何年かに一度はきっと。
――その共有感覚が、多分とても快かったのだろう。
わたしの中で、このお祭りはノスタルジアの権化ともいうべき思い出だ。
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この本は(ようやく本題に入る)、一見、ごくごく一般的な恋愛短編集。
「それだけの本」と言ってもいいかもしれない。しかしこれが「それだけの本」と一線を画すのは、
素直な甘さの背後にある、微妙な……隠し味のような何か。
何しろ隠してあるので何の味かわからない。逆に何の味かわかるようでは隠し味という
微妙なものにはならない。
恋愛もので、しょっぱかったり苦かったり、“甘いだけではない”を売りにしたものは、
よくあるんだろう、多分。(←恋愛ものをあまり読まないので、想像だが)
この作品も、そういった意味では「甘いだけではない」のだけれども、
その微妙さ加減が実に微妙で、このバランスはもしかしてなかなかエライのではないか。
わたあめのようだ。甘いお菓子、でも単にそれだけはない、色々なものを内包したわたあめに。
と、読了直後は思っていた。
が、読後30分ほど経って我に返る。
しかし、わたあめは所詮わたあめなのではないか。
ここに“所詮”とつけるべきかどうか非常に悩む。
思い出の甘美さも大事だとは思うけれども、それに幻惑されてわたあめを何かスゴイもの、と
勘違いしてしまうようではやっぱり違うだろう。
所詮とつける必要はない。だが、わたあめはわたあめ。それ以上でもそれ以下でもない。
――別に本を読んでこんなことを考えなくてもいいと思うんですけどね。
我ながら、冥王星軌道のようにものすごく遠いところを通っている気がしないでもない。
(ってまたそういう遠回りな比喩を使うから話がますます遠く……。
関係ないけど、冥王星!わたしの中では君はまだ惑星だよ!
だって冥王星を小惑星にしたらプルートーがかわいそうじゃないか!)
物事はもっとシンプルでもいいのになあ。
面白く、気持ち良く読めたんだから、ヨンデモ本。
なんでこう素直に書けないのか。
わたあめのような本です。
この本を読んだのは、例によってネット上のこの場所から。
この人も恋愛小説専門ではないらしく、そんな人がこう書く本に興味が湧いた。
ただ、わたあめってそんなにいつもいつも食べるものじゃないよね。
なので、この人の本は半年ほど経ったらまた読もうと思います。
それ以上の頻度で読むと、飽きそうな気がする。
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