これは庄野潤三贔屓の書評家、池上冬樹のおすすめ。
というわけで、庄野潤三を読んで楽しめたわたしはこれも楽しめた。
傾向が同じなんですな。
庄野潤三のエッセイは作家の日常。まー、よくこれで金がとれるなー、という
ごくごく穏やかな(換言すればメリハリのない)日々の生活を綴ったもの。
これに対して、佐伯一麦のこの作品は思い出を綴った文章。
主人公である「少年」(少年の友達はしっかり名前や苗字が出てくるのに、
少年の姓名は明かされない)の、歩けるようになった頃から小学校3,4年までの思い出。
一見、詩的なエッセイとしか思えないけど、あとがきを読むと
自分以外の体験も含まれているらしいので、一応フィクション――私小説、ということになるようだ。
(私小説というのもわたしにはよくわからないのだけれど)
安易にここで庄野潤三と「少年詩篇」を比較すると、
庄野潤三ははっきりいって、どこが文学的なのかさっぱりわからない。
ひたすらに優しい文章ではあるけれど、まったく才走ったところがない。
ほんとに普段着の、作為なく淡々と綴った文章に思える。
明確な美点と言ったら登場人物の気持ちよさ。
それに対して「少年詩篇」は文章に才を感じる。
やっぱり文学には才は必要でしょう、と何となくわたしは思っているので
うん、まあ文学作品。と納得出来る。
優しいというより懐かしい作品。少し切なさが交る。
そう言いつつ、わたしは庄野潤三の方が好きだけれどね。
どちらも楽しめるけれども、ひたすらに優しい庄野潤三の本は安心して読める。
「少年詩篇」は少年期の話だけに、危うさが常に背後にある。
少年期が輝けば輝くだけ、大人になった「少年」は不幸になってしまうのではないか。
そういう不安。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
しかしわたしがこの本を楽しめたのは、もっと簡単な理由がある。
佐伯一麦。実は地元出身・在住なんですな。つまりこの作品の中には馴染みの地名が
ぽろぽろと出てくる。地元がフィクションの舞台になることは多いと言えないので新鮮だ。
「天下大名」というボール遊びが出てきた時は笑った。
これは多分地元の、しかもある年代しか知らない遊びだと思う。
そうか、あなたもやっていたのか。なつかしいね。面白かったよね。
あまり関係ないが、以前たまに行っていた喫茶店。
そこは文学喫茶だった。いまにも潰れそうな天井の低い店の建物。
壁には古い同人誌がぎっしりと。所せましと並べられていた。
わたしはそこの、安い割に量の多いサンドイッチを昼食にするために行っていたのだが、
いつもその店の雰囲気は気になっていた。何とも言えない、年代を間違えたような
古めかしいたたずまい。30年前に使っていたような低いテープルと椅子、
椅子の上に乗ったクッションはいかにも手作り、しかしセンスがいいとはとても言えない――
そこには佐伯一麦の著作もあった。地元の作家だから特別に揃えていたのだろう。
読書会、もしかしたら連歌の会とかも開いていたようだ。
そのせいか、あそこには佐伯一麦が来ていたような気がして仕方がない。
今回読んで忘れていたその店を思い出した。「集」つどい、という名の店だった。
まだあるのだろうか。行ってみようか。
ところで、佐伯一麦は「さえきかずみ」と読む。
……数日前wikiを見るまで、全く知らなかったよ。ずっと「いちばく」だと思っていたのに。
コメント