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◇ ブラッドベリ「華氏451度」

昔々、薄いながらも傾向的にはSF者だったわたしとしては、
ブラッドベリは当然読んでいていい作家の範疇。
が、実際は海外作品は全くといっていいほど読まなかったので、
10年くらい前に読んだ「たんぽぽのお酒」が唯一のブラッドベリ。

「たんぽぽのお酒」には非常に感銘を受けて、原書も買ってしまったほどだったが、
しかし同時に「SF作家なのか?」と疑問を抱いたことも事実。
「たんぽぽのお酒」は詩的なファンタジーだ。見方によってはファンタジーですらなく、
少年時代の郷愁を描いた一般小説だろう。
(ああ、それにしてもテニスシューズの章は美しいよ。)

ここ3ヶ月くらいで、何冊かのブラッドベリを読んだ。
「何かが道をやってくる」「火星年代記」「太陽の黄金の林檎」とエッセイ一冊。
……それで思うのだが、この人はSFよりファンタジーを書いていた方がいい。
「たんぽぽのお酒」と比べて、「火星年代記」あたりの食い足りないこと……

「火星年代記」「華氏451度」は文明批判のストーリー。だがそれがあまりにも
むきつけなので幼稚に感じる。(「むきつけ」ネット辞書に載ってないのはどうして?
あからさま・これみよがし・見せつけるようなという意味で使っているのだが。造語か?)
この部分を1900年代半ば発表の古い小説のゆえと捉えるか、
ブラッドベリは社会批判の小説は下手なんだ、と考えていいのか。迷う。

「火星年代記」あたりだと、西暦が明記されているため、それで損している部分もある。
西暦2000年を挟んで前後10年20年の話だから、まさに「現代」なわけで。
今の時代、まだ人類は火星に入植してないし、ロケットをまるで貸し切りバスのような気軽さで
利用出来ているわけではない。昔の人が2008年にはこうなっていると夢想していたんだな、
という意味の面白さはあるが、ノレないことで小説の面白さが多少減ぜざるを得ない。
技術系の話を書くのは難しいよね。今、10年前くらいの小説を読んでも、
コンピューターがメインだったりすると古さが気になってしょうがないもの。

(少し話がずれるが、この間、片岡義男を初めて読んで、そのあまりの内容のなさにかなり驚いた。
が、薦めてくれた人によれば、ああいう「気分」を描く小説は当時としてはとても新しかったそうだ。
その時代に読まなければわからないこともあるのだなあ。)

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以上が小説を外から見た場合の感想。以下は内容についての感想。

華氏451度。これを読んでいると、ほんと苦々しい。
何がイヤって、50年前にこんなに安易な予想をされて、しかもそれが現代に
ほとんど当てはまっているという事実。言葉を変えていえば、
実際にこの薄っぺらい世界に生きているんですよ、我々は。

ま、焚書は基本的に行われていない。時々あるらしいけどね。
(以前アメリカで「ハリー・ポッター」が焚書されたというニュースがあったかな)
一応、焚書が野蛮な行為であることは人々に認知されていると思う。
が、それ以外は当てはまってしまうのだ。

人々は知識も思考も禁じられており、本は思考を助長するとされ全てが容赦なく燃やされる。
本をあくまで秘匿しようとした人は本人ごと焼かれる。
一般人は壁が受像機になった映像を相手にひたすら時間つぶしをする。
主人公の妻は映像壁を相手にドラマを演じており、(双方向受信が高度に実現しているため、
視聴者がドラマの役を演じることが可能。が、それはその映像内で完結するため、
つまりはゲーム機でロールプレイングゲームをしているのと同じ状況。)
映像壁で飽き足らなくなると、車にのってひたすらスピードを出す。
当然事故は多発するけど、それはそれ。「人間は自分だけは死なないと思っている」。
映像を見ていない時には、妻は耳に「海の貝」という機械をはめ続け、その音を聞いている。
主人公との会話は読唇術によって成り立つ。
人と語りあうことは減り、主人公の夫婦はいつお互いと初めて会ったのかすら覚えていない。
接触を避けることで心の平安を得、波風を立てることを絶対的に恐れる。
物質的には満たされた生活。それなのにみんなが不幸。

ブラッドベリは、「こんな風になったらどうするんだよ」という警鐘のつもりで当時
この小説を書いたと思うんだ。なのに、実際今こうなっている。
「けっ」と呟く以外に何かすることはあるか。

ちなみに本作は、最後に急転直下、カタストロフィ→希望が漂って終わる。
最後に希望を見せてくれたのはありがたかったけれど、このとってつけ感も下手だと感じるな。
詩情漂うファンタジーの書き手としては、あれほどいいものを書く人なんだが、
あんまりSF作家として見ない方がいいかも。

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ところで、わたしは「人は何のために生きているのか」と時々考える。
現時点での答えは一応出ており、本作にだいたい重なる箇所があったので引用する。

   人間である以上、死ぬときはかならず、あとになにかをのこしておくべきだ。
   わしの祖父が、そういっておった。子供をひとり、本を一冊、絵を一枚、家を一軒、
   築いた塀をひとつ、あるいはまた、こしらえた靴を一足。それでなければ、
   自分の手で丹精した庭園、なんでもよろしい。なにかの意味で、自分の手の触れたものを
   のこしておかねばならぬ。(中略)
   おまえの植えた木なり花なりが、他人の目に触れることは、おまえがそこに存在することだ。

「人は何のために生まれてきたのか」
この問いに対する答えは出ていない。というよりむしろ、人類が生まれたこと自体には意味はなく、
単なる偶然による原初物質の結合でしかないと思っていますが。単に物理的な理由。
生まれたことに意味がないなら、実は生きていることにも意味はない。
が、せっかく生きているのに「意味なし」では、あまりにもロマンチックじゃないから、
とりあえず意味を考えてみる。と、「何らかの影響を他者に及ぼすため」という結論になった。

だが影響は、実は非常に物理的なことでも成り立つ。
一番基本的なレベルで言えば、どこぞの山奥で完全に人に知られず暮らしている人でも、
呼吸により二酸化炭素を増やし、食物摂取で植物・動物の個体数を減らす。
これも影響。つまり「生きてるだけで生きる目的は達している」ということ。

でもこれでは生きる理由としては味気ないやね。
だから、せめてもう少しロマンチックに……他者に対する影響を理由にする。
しかも影響なら、良い影響も悪い影響も等価のはずなのだが、
悪い影響ではやはりロマンチックではないので、良い影響のみに価値を置く。たとえばこんな風に。
「人が生きている理由は、心からの微笑みを誰かに向けるためだよ」
……これも遊びだな。ごまかしだとは言わないけれど。
これをごまかしだと言ってしまったら、ロマンチックじゃなくなるからね。

わたしは常に、シニックと性善説なロマンチストに分裂している。

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なお、以上のような戯言を書いていたら、ギボンにたしなめられた。
……今読んでいるのは「ローマ帝国衰亡史」だが、そこに、
「過去をたたえ、現在をけなすのが人間の常である」と書いてある。

うへー。すみません、大概にします。

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ちなみに華氏451度とは、紙が引火する温度。摂氏では220度にあたる。

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