初めの数行で、まずつまづく。
本書は、私が今まで出版した書物の中で最も無駄になってしまったものだと思い、
私は再版しようとは思っていなかった。(中略)
しかし、多くの人々が、今なお本書を愛読していることや、本書のどの部分が自分たちに
とって有益なのかわからない一般の人々の間でも人気があることを知り再版することにした。
これは再版の前書きの冒頭部分なのだが……
「最も無駄になってしまったもの」という訳については、わたしの感覚に合わないだけかもしれないから置くとして、
「本書のどの部分が自分たちにとって有益なのかわからない一般の人々」……
おいおいラスキンさん、喧嘩売ってるのかね?
転けそうになりつつ先を読んで行くと、「挿画の図版にオリジナルを挿入した初版本については、
市場で高い値がつくだろう、とあえて言いたい」とあって、それは自分が苦労して描いたからだ、と続く。
……再版の前書きで、初版本の価値について述べる必要があるのか。
そもそも本の(金銭的な)価値についてまず主張する前書きってどうなのよ。
最後の方にも駄目押しで「初版も再版も価値はなくならないだろうし、
時間とともにさらに高価になるだろうと信じている」なんて書いている。
この人、よほど自著の価値を広告したい人なのか?
まあ、21世紀に図書館から借りた本で読んでいるわたしと、19世紀に実際にこの本を
手にとっている人たちでは、本に対しての感覚は当然違うだろうけど。
これに引き続いて、初版の前書きが出て来る。(この順番は逆の方がいいのでは?)
ここでわたしはついに失笑した。ラスキンは挿画について、急いだことと単なる参考資料として制作したために、
「あるものは完全に失敗作になっているものもあると思う」と述べた直後、
本文の大部分は、それぞれの挿画が完成する前に書き終えたが、文章では醜いと説明してあっても、
挿画では美しく気高く無邪気に描写してある建築もある。そのような場合、読者たちは、そこに記されている
文章とは関係ないことを理解して見てほしい。
なんだあ?これ?
首を傾げつつ本文へ。前書きがヘンでも、本文はまともって場合もたまにはありますからね。
が、これがなあ……
はっきり言って訳がひどい。恐るべき直訳。訳者は何者だ、と思って本の最後を見てみると、
文化財虫害研究所研究員。(1997年の段階で。)共訳書に「博物館の環境管理」「博物館の防虫対策手引き」他。
……あのねえ。
訳ってのは、横のものを縦にするってことじゃなく、日本語の文章として新しく生み出すことなんだよ。
ということは、日本語の文章力というのがまず必要なわけ。カナダで勉強したことがある、
英語に不自由しないからといって、翻訳が出来るってことではない。
資料ならね。まだ直訳でも意味があるのかもしれない。でもこれは読み物として扱われるものであって、
その日本語がひどければしょうがないでしょ。
そしたら訳者あとがきにはこんなことが書いてあるんだなあ。
私は本書の翻訳の作業中、ラスキンの難解と言われた名文を名和文に置き換えることについては
あまり念頭に入れなかった。ただひたすらに私の脳裡に長い間深く刻まれていたこの素晴らしい
表題を紐解くことであった。
……何を言っているのだ。
しかもここでしっかり出ているように、本人が書いた日本語であるにも関わらず、文の繋がりが変でしょー。
ここは間に「目指していたのは」くらいの言葉を挿入するべきところだ。本文もこういう「は?」という部分がとても多い。
佐藤賢一を思い出したよ。あの人も文章と文章の繋がりが変だったもんなあ。
「念頭に入れる」なんてのも誤用だからね、こういうのにも気を使って欲しいな、是非。
それから「表題を紐解く」ってのもねえ。わたしとしてはなんか気になる。
紐解くのイメージを考えればまあ可でいいんだけど、「書物を紐解く」という言い方をした場合、
本を読むという意味でしょ。むしろ「主題を読み解く」とした方が意味が明確だと思うが。
それから、細かいことを言えば、「ただひたすらに」の位置も違う。
と、こんな数行の文章でさえ突っ込みどころ満載な人は、あまり翻訳をしない方がいいと思う。
これは凶訳ですよ。
この訳のせいで、わたしの中ではラスキンがすっかり誇大妄想狂のイメージになってしまった。
まあ正直、あの前書きを読む限りにおいては……訳を置いておいても、いいのかあれで?と
思ってしまうけど。でももしかして良訳ならば「小難しいことは書いてあるけどなかなか
良いことも言っている」と思っていた可能性もゼロというわけではない。あくまで可能性の問題ですけど。
うーん。わたしは基本、「たとえどんなのでも翻訳がないよりはあった方が良い」というスタンスなのだが、
この本を前にすると、そうも言えないなー。ラスキンが可哀想に思えてくる。
というわけで、こんなもん読んでもしょーがないと思い、読了を断念した。
実は岩波文庫で別訳が出ているらしいが、うーん、そちらをチェックしてみるべきか?
※※※※※※※※※※※※
ところで、ここでラスキンから離れた一般的な疑問なのだが、
「難解と言われた名文」は名文たりうるのか?
以前から折にふれて考えているのだが、答えが出ない。
どのレベルで難解と感じるかは人それぞれ。
えー、まー、アレとかコレとかしか読んでない人々は(さすがにアレとかコレの実名を
挙げる勇気が出なかった。というより、アレとかコレ、わたしは読んでいないもので)、
宮部みゆきあたりでも難解だと感じる場合もあるだろうし……
うーん、わたしが難解と感じて読み続けられなかったものは……
とりあえず思いだせるものとしてはエリアーデの何だかと「ツァラトストラ」……。
ただ文章が難解なのと、内容が難解なのはちょっと違うし。
文章が難解ってことはどういうことなんだ?
意味を汲み取れない・意味を汲み取るまでに時間がかかるということ?難しい単語を使うとかかなあ。
文の第一の価値は「意味を他者に伝える」だと思うけど、意味の伝達に時間がかかる文章は、
果たして「良い」文章なのか。良い文章じゃないものが名文であるわけないし。
うーん。
人によって読解力に差があるという事実自体は変えられないから……
難解で、誰にも理解出来ない文章は名文とは言えない。では50%の人々に理解出来るなら
名文たる資格ありか?30%なら?10%なら?
……ということは、万人向けの名文というのは存在しないってことだろうか。
そもそも名文の実例って、わたしは思いつかないからなあ。
唯一思いつくのは、「奥の細道」の平泉の段。「奥の細道」は段によって文体がずいぶん変わるんだけど、
平泉の段、特に前半はきりきりっと歯切れ良く始まり、内容も劇的でとてもかっこいい。
暗誦したくなる魅力がある。が、古文や韻文は、名文は名文にしても、ちょっとカテゴリが特殊。
わたしは凝った比喩がきらいなので、理想とするのは水のように涼やかな、すっきりとした
文章なんだよね。イメージでは森鴎外あたりが該当する気がするけど、好きという作家ではなく、
あまり読み込んだものもない。「舞姫」あたりはさすがに読みにくかったような記憶があるし。
(このあたりの読みにくさが、“名文”とどう関わるのかがポイントである気もする。)
名文としてのすっきりした文章と、単なるあっさりした文章との違いは、と訊かれても説明出来ないなあ。
まず理想の名文にめぐりあうことが先か。いや、それとも理想の名文なんてそうそう出会えるものではないのか。
今ちょっと期待をかけているのは、中島敦。イメージでは非常に硬質で、すっきりした文章を
書きそうではないですか。
読んだことのある彼の作品は、遥か昔、教科書にのっていた「山月記」くらいか。
リストアップしているので、いずれ全集を。
何しろ全集といってもたしか4巻しかないはずなので、――こういう言い方は多少語弊があるが、
読むべき量が少なくて有り難い。
コメント
Unknown
ああ、同じ感覚の人に出会えて、安心しました。
小生もやはり途中で読むのをやめました。
翻訳機にかけたものを、補正したような訳ですよね(苦笑)。
段落単位でさえ論理的に理解するのに苦しみました。
Unknown
いらっしゃいませm(__)m。
鹿島出版会も一体何を考えて出しちゃったんだろう?という感じでしたよね。
コレは公開してはいけない部類でしょう。
ラスキンは、一応「ヴェニスの石」はいずれ読んでみようかと……
2年くらい先の予定ですが。それが面白かったなら、
岩波の「建築の七燈」を読んでみようかな。
40ページまで読んで挫折した後に読んだ本で、
誰かが褒めてたんですよね、「建築の七燈」を。
まさか鹿島出版会の方ではあるまい。
注:追記。
「ヴェニスの石」(「ヴェネツィアの石」)を読んだ。
「建築の七燈」が凶訳だったのは間違いないが、
読んで「ワケワカラン」と思ったうちの何割かは、
ラスキン本人のせいらしいと見極めた。
「ヴェネツィアの石」は内藤史朗という人が訳したのだが、
こちらも、内容は目が滑るものだった。
もしかしたらこれを楽しく読める人もいるのかもしれないけれど、
言葉だけが大げさで、全然大事なことを言っているように見えないと
わたしは感じた。
一般人が読むものとしては、楽しく読むのに大変苦労をする本。
……しかし今回の訳者にもいいたいが、
もう少し簡単に訳してみるという方向をとってみたらどうかね?
本人の文体が長ったらしい単語を使った荘重なものだろうとは推察するが、
本当にラスキンの著作に読ませる意味があると思うなら、
少々節を曲げても読みやすく訳した方が、
世のため人のためのである気がする。
建築の七灯
たまたま ラスキンの”SEVEN LAMPS OF ARCHITECTURE”の、美しい革装本を国際古書展で買ったので、ふとインターネットで検索してみて、このブログに行き当たりました。
問題の翻訳書のことは知りませんでしたが、皆さんがおっしゃることは、よくわかります。
建築書に、良い翻訳というのは めったにありませんから。
ただ、そのために原著者まで不評を買ってしまうのは、少々かわいそう。
で、この本の「前書き」の部分だけですが、ちょっとラスキンの弁護をします。
彼が書いているのは、
一般の人が、今もこの本を好み、そして将来も、本当に有益なものを見出せない時には いつでも、本書を読んでくれることだろう。
本書の初版は、私自身のオリジナルの版画を図版にしているので、これから先も高価なものとなってしまうだろう と言わざるをえない。
(つまり、入手困難である)
(再版ではカフ氏が版画のすばらしいコピーを作ってくれた)
それでも、私の古い本たちの現在の版も、それほど安価には なり得ないが、時とともに 手頃な、入手しやすい価格となっていくだろうと信じている。
ということを書いています。
「よほど自著の価値を広告したい人」というわけでは ありません。
図書館で岩波文庫版を見てみましたら、これはずいぶんと古い訳で、あまり読みやすいとは言えません。
鹿島版の訳者が、他の人に協力をあおいで、全面的に改訳すると良いですね。
ありがとうございます。
ああ、ちょっと和みました……。
ラスキンはそんなに尊大な前書きを書いていたわけじゃなかったんですね。
安心しました……。
……って、やっぱりこの訳が凶訳なんじゃないかッ!
ここまで来るとむしろ出版したのが罪かもしれません。
鹿島出版会。あまり購入数が見込めないであろう建築関係の本を
出してくれる団体として、TOTO出版と共に親近感を抱いているんですが。
ほんとこの本、何とかした方がいいです……。
ところで、
>美しい革装本を国際古書展で買った
……鹿島茂さんの同類でいらっしゃいますね?
愛書狂道はツラく険しい道だと思います。ご自愛ください。
(と、勝手に決める(^o^))
ご訪問ありがとうございました。