「たけしアートビート」で先日取り上げていたのは“桜守”の佐野藤右衛門。
桜守だとアートとは何の関係もないようだけど、造園家と言われるとアートに感じられてきますね。
言葉のマジックというか、ゴマカシというか、言葉の持つ魔性がよくわかる(?)。
洒脱な人、というのはこういう人のことを言うんだろうなあ。
京都人。御歳83才。柔らかな京都弁で自然体で話す。時々噴き出すようなことを言う。
たけしが「植木って土が合わないとか何とかで、移植出来ないもんだと思ってた」
「そんなことありますかいな。そんなんやったら女の子、嫁に行けしませんがな」
間髪を入れないこの反応に笑った。ちょっと論理に飛躍があるが、わかる。
樹木の移植というのは、その場所に慣れるまで3年かかり、それは女の人が嫁に行って
そこに落ちつくまでの年数とほぼ等しいと。
例えというか、ネタで何度も言っていることなのかもしれない。
でも多分、自分の敷地から植え替える時は“嫁入り”が実感なんだろうなあ。
心で木に向かって呟いている気がする。幸せになりいや、と。
いい意味で遊び人ではないだろうか。いや、悪い意味での遊び人かもしれませんけどね。
行きつけのお茶屋の、そこでの舞妓さんとのやりとりを見てそう思った。
平安時代の言葉でいうところの色好み。色気のあるおじいさん。
心に留まったことを、順不同に。
桜は種から育ててるんだって。だが、ソメイヨシノは無理な交配がたたってか実を結ばず、
接ぎ木で増やすしかないとのこと。いわばクローン。だからソメイヨシノは嫌いだそうだ。
種から育てると、同じ親から生まれた兄弟にも個性があるように、
それぞれの種で全然違う個性が出るそうだ。ピンクの濃淡や、花弁の形とか。
番組で映ってたけど、種から3年で10センチくらいしか育たないんだよ。
囲ってあるから何とかわかるが、ひょろひょろで、普通に地面にあったら気付かずに踏んづけそうだ。
あれが大木になるまでには、気の遠くなるような歳月が……
その、考えるとイヤになるような先のことを、……見ているような見ていないような
茫洋たる目をしながら、あの人は一粒の種を植える。
そういう生き方をしてきたのは、藤右衛門さんのお父さんもお祖父さんもそうで。
お父さんだったかな、やはり桜を愛した人で、全国の桜の数十種類を――数百種類かもしれないが――
日本画家に絵にかかせたそうだ。自家コレクションとして。色紙よりは大きかったかな。
西洋で言うところのボタニカルアート。の日本画版。
だが、当代藤右衛門さんは「描かれてるのが紙やから、数百年しか保ちませんのや」と言う。
数百年も保てば十分な気がするが。――しかしそのため彼は何をするかというと、
お父さんが描かせたその絵を原画にして、西陣で織物を織らせてしまうのだ。
「これならもっと長いこと保つ」と。どんだけ桜好き。
桜の花びらを一枚口に含んで、「いい年の花びらは甘い」と。
たけしも真似してみたんだけど、……素人には噛み分けられないほどの微妙さのようでした。
花びらなんて、あんなぺらっぺらなもの、味がわかるためには一つまみは食べなきゃないよねえ。
兼六園の桜を接ぎ木で増やさなきゃいけなくなり、何度も試みたんだけど、
なかなか根づかなかった時のこと。
最後の手段として、京都からトラックでお父さんと2人で行って、兼六園のその桜を一枝、
――ずっと口にくわえて運んできたそうな。それで初めて根づいたんだって。
唾液の殺菌作用とか、人肌の温度とか、理由はありそうだったけど、
一体なぜ枝をくわえて運ぼうという発想が出るのか。
昔から伝わる植木屋の秘伝(というか手法)なのか?頭で考えた解決法とは思い難い。
かといって愛情が思いつかせた方法、とか言っても安易だけどね。
京都迎賓館の庭を作ったらしい。意外にあっさりしていて――あっさりしすぎていて、
え、もうちょっと気合い入れたら、と思ったくらいなんだが、そのあっさり具合が肝らしい。
「漢字の“一”おまっしゃろ。あれは最初にぐっと入って、まん中はすっと流して、
最後に力を入れて止める。あれと同じですわ」と。
そうだねえ、詩仙堂の庭をあっさり度数55くらいとするなら、
京都迎賓館の庭は(いくつかあるが)20~25くらいかねえ。
竜安寺の石庭が10くらいとして。
庭の名前がわからないけど、水辺の芦の庭が良かったな。
撮影の時はちょうど雨だったので、より風情があったのかもしれない。
こういうインタビューを見つけた。ここでも人柄の一端はうかがわれる。
数年前の記事なので、まだ性格に狷介さがうっすら残っているか。
番組を見終わって、しみじみとした。ジョー・プライスにも感じた、
大好きなものを見つけた人の爽やかさと、かすかに交じる、爽やかさとは正反対のどろどろした執着。
人間というもの、ですね。
※記憶による再構成につき京都弁は完全に適当。
※※※※※※※※※※※※
その後、植治・十一代小川治兵衛の番組を見たが……
実は、始まって5分くらいで耐えられなくなった。
テレビ番組としての構成がまずかったのかもしれないけどさ。
あまりにも十一代目の言葉数が多くて。しかもその語る言葉が、なんかどうも薄っぺらくてなー。
頭で考えたことのみ!という感じ。長年かけて体で実感したことではなく。
職人に対する部外者の安易な幻想と言えばそうなんだけど、
せっかく生き物を相手に、自然を相手に働いているんなら、もうちっと何とか
味わいのある言葉が出て来そうなもんだけどねえ。
番組としては、もっと庭を映すべきではなかったか。
しかし微妙なんだよねー。小川治兵衛としては七代目が中興と言われていて、
山形有朋の無鄰菴とか円山公園とか有名どころを数々作っているようなんだが。
七代目の作品を映しつつ、喋りまくるのは十一代目。
能書きはええっちゅうねん!……と言いたかった。
「植治」のホームページで十一代目の作庭録を見ると。
総じて煩い。ま、写真の撮り方にもよるんだろうけど。
デザイナー、なのかね。庭師ではなく。デザイナーと庭師では自然に対する目線は違うだろうな。
頭良すぎるんじゃないの。体使ってるか?
番組でも取り上げられていた、株式会社京鐘の ブライダル庭園「百福庭園」、
……もう何がパワースポットやねん、と。はー、やだやだ。
こんなん作って庭でござい、と得々としているというのは、わたしの趣味とは相容れない。
その後、たまたま泉屋博古館に行く機会があったのだが、
――ま、写真で見るよりは落ちついてました。
先に写真じゃなく、実際を見ていたら「わりと面白いんじゃないの」と思ったかもしれない。
少なくともデザイン性は高い。
デザイン性が高いだけでいいのか、という部分が最大の疑問ではあるけど。
コメント