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◇ 竹下節子「聖者の宇宙」

この人の著作は3冊目。そして、多分記事にあげるのは初めてだと思う。

実は1冊目から面白かった。「からくり人形の夢  人間・機械・近代ヨーロッパ」。
これは4年位前に読んだもので、全く期待しないで読み始め、相当気に入ったのだが、
――著者の立ち位置に信頼を抱けなかったのも事実。
評論家で文化史家なんだそうだ。パリ在住。(wikiより)
「評論家」なんて何の肩書もない人間をそれっぽく見せるのに使われる便利な言葉ってだけだし、
パリ在住というところも微妙にマイナスに働く。ある種の羨望も含んでいるとは思うが。
要は、海外在住という地の利を生かし、ちょっと勉強したことを書いているだけではないかと。

自分の読みに自信がないんですな。
わたしはアカデミズムを志向したいわりには、トンデモ本に惹かれる傾向があり、
ちょっと毛色の変わったものにヨワイ。
まあ例を挙げれば梅原猛の歴史物とかですね……。あれは範囲としてはトンデモ本でしょう。
彼は哲学者かもしれないけど、歴史学者ではないはずですので。
ああいうの、いかんいかんと思いつつ惹かれてしまうのだから、常にトンデモの危険は付きまとう。

何をもって「歴史学者」を規定するのかというと、自分の軸足の位置でしょうな。
専門分野以外でなら、やっぱり冒険もしやすいですよ。
梅原猛はそこらへんはおそらく無意識だと思うし、素人呼ばわりされれば心外だろうが……
門外漢だからこそ言えるという部分がある。
専門家は、自信を持って言えることは実はそれほど多くはない気がする。

※※※※※※※※※※※※

というわけで、竹下節子。

でも今回の「聖者の宇宙」は本当に面白かった。それは、

レトリックのユーモア
アイロニーと諧謔、紙一重の内容の可笑しさ
内容の興味深さ

という三種類の味わい。正直にやにやしながら読んでいた。

なんていうのかな。岡目八目的な――所詮は他人事を書いた面白さなのかな。
在フランスが長いのなら、西洋文明もある程度肌に馴染んだものにはなっているだろう。
だが、その文化圏で生まれ育った者とは同質にはなれない。当然ながら。
そこをコンプレックスとせず、あるいは冷静さを過度に装わず、彼我の優劣もつけずに
純粋に愉しい興味を“見る目の主幹”にしてそうなところに好感がもてる。

とは言え、書きぶりは相当に(そして内容も大部分は)真面目なのだが。
でもその真面目な書きぶりの背後に「まあこういうのもねえ……」
という苦笑が感じられる部分がある。

   イエスが使徒に言い残した第一のいましめというのがある。「心をつくし、精神をつくし、
   思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12-30)というものだ。
   (「愛しておくれ」というのが第一の命令であるとは、神はまるで人間の似姿のようだ。)

うふっ。これはやっぱり生粋カソリックには言えない台詞で、他人事ならではの突っ込みだろう。

   悪魔は聖者を打ちのめし、鍛え抜いて、聖者を真に聖者たらしめる。聖者は神によって輝き、
   悪魔によって完成するのかもしれない。

若干言葉遊びっぽい部分はありつつも、穿った見方だ。

内容で、いたく「なるほど」と頷けたのは、守護聖者の名前を持つことで、
その聖者グループの一員として受け入れられる、という指摘。
前から漠然と思っていた。外国人の名前はわりと類型的で数が少ないように思うけど、
あんまりあっちこっちで自分と同じジョンとかマリーとかに会うのはイヤじゃないのかな、と。

そうか、むしろ持つのは仲間意識……
少なくとも(その名を子供につけた)両親は、価値観が似通っている可能性があるしね。
だからスーザンとシュザンヌは可能性としては、似たもの同士であり得るかもしれない。
それだけでくくるには乱暴な話だが、数%の部分でならあり得る。
そして、聖者から名をもらった聖者も合わせてグループに入る、というのも目から鱗。
そういう方向の思考はなかった。

多分守護聖者を持つということは、日本人に合わせて考えると、
――お守りを持つ感覚と近いのではないか。
敬虔な信者は別として、多ければそれだけ心強いというか。何かの時には役に立つだろうと。

しかし、これは前から思っていたけど、カトリックというのはほんとに
一神教の皮を被った多神教だなあ。
やっぱり人間には選択欲・コレクション欲があるのではないか。
選択の余地のない人生に何の面白味があるだろう。
人生は選択という遊びを生きてるのかもしれない。

一神教は非常に稀有なものだと思う。ユダヤ教について興味が湧いた。

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人間イエスを深く愛した人々が、彼の苦しみの惨めさ、無意味さに耐えられずに
そこに意味を与えようとしたのはわかる気がする。
しかしそれをそう考えてしまうと信仰は出来ない。

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