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◇ パウロ・コエーリョ「アルケミスト」

すごく好きだった。とても愛おしい一文がある。
その一行を指で撫でたくなったくらい。

……が、やはり物語というものは。
その一文を取り出しただけでは書かれたものは伝わらない。
わたしが読んだのは角川文庫版で、背表紙に書かれた概要にその一文も含まれているのだが、
――アンタは間違っている、角川文庫。その本のエッセンスとしての一言を、
道具立ても何もなく、つらっと概要に載せるのは止めんかい。
そんなことをすると“それだけのこと”になってしまうんだから。

ま、ワタシは角川文庫がキライでね。ついついキビしく当たってしまうのだが。
しかし概要については、岩波文庫あたりも時々相当間違っているんだよなあ……。
いくら古典といったって、小説の結末は載せない方がいいんじゃないの、岩波?

実は概要の書き手って概ね文才無いっぽいですよね。文章として相当高度なテクニックを
求められるものの筈なのに、多分その辺の人がルーティンとして書いてるんだと思う。
ルーティンではなくて、概要も作品であるべきではないのか。
と、こないだミュージカルのあらすじを書いた時に、自分の書いた文を見て
「なにこの陳腐さ」とつくづくイヤになったわたしが言ってみる。
……そこから派生してさらに一言モンクを言っときたいが、
「あらすじで読む名作」ってなんなの、一体!!意味があるのか。

まあそれはそれとして。
「アルケミスト」は童話風の話。Ⅰ(前半部)とⅡ(後半部)とエピローグで構成されている。
――わたしは、むしろⅠだけの話でも良かったかなと思う。
Ⅱも別に悪くはないが、若干話が拡散するというか、いろんなことを書いてしまっているので。
もっとシンプルにまとめてくれた方が、おそらくその詩情が活かせた。

好きだね。夢を見させてくれる話が好きだね。
それでも人生は美しい、と語る話が好きだ。

ただ、後半部。夢と神を同時に語るのはちょっと難しいことではなかったか。
夢を見るベクトルと、神へ繋がるベクトルは、根本的に相容れないものである気がする。
夢を見ることは人間の大いなる力、人間賛歌というべきものであって、
そこに神を介在させる必要はない。

――と考えるのは、おそらくわたしが信仰なき人間だからだろう。
夢を見る力は植物が生成する力、神の愛はそこに降り注ぐ日光、という比喩も可能なわけだし。
まあそれほど神の話でもなかったんだけどね。
でも「夢を追求する一瞬一瞬が神との出会いだ」……などと言われてしまうと、
わたしなんかはそこで我に返ってしまう。興ざめしてしまう。

人間だから夢を見る。そこには他に何も必要ない。
水が流れるように、果実が落ちるように、息をするように自然に。
神の恩寵によって呼吸しているなんて思うのは厭なのだ。そこまでは言ってないか。

結末部は、落とし噺のようなオチで、いいのか?と若干微妙だが、
寓話にはありがちのことだから良いとしよう。
それにしても、――好きな話の好きな部分を語れない自分が悲しい。

ちょっと笑えたこと一点。
最初の一行が「少年の名はサンチャゴといった。」だったのだが、
その後、話の中で少年は常に少年と言われるだけで、名前がちょっとも出てこない。
名前つける必要、なかったやんか。

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   おまえが何かを望む時には、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ。

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