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◇ シンクレア・ルイス「本町通り 上中下」

上巻を数か月前に読み、中巻下巻は最近読んだ。

まあそういう読み方をしても特に問題ないような内容だった。
これ、このページ数を必要とした話かなー。
都会女のキャロルが田舎町に嫁に来て、その場所とそこに住む人々を“より良く”変えようと
足掻いたあげく、結局都会にも田舎にも長所短所はあると納得し、まあまあ満足して
生きるようになる、というような話なのだが……ちょっと乱暴にまとめすぎ?

でも上巻から延々下巻の300ページまでキャロルの田舎町での異分子ぶりに筆を費やしたあげく、
下巻のラスト60ページで、キャロルがワシントンで自活し、その自活もそこそこ上手くいき
(当時で、しかも子連れにも関わらず)、そこで2年間暮らしたあげく、
その別居状態を許容していたケニコット氏(←キャロルの旦那)と元さや、とかいうのは……
安易ではないか。こういう結末にするのなら、結末以外の部分が長すぎらぁな。

変わらないよなあ、そうそう。と思った。
町から嫁に来て、田舎に失望するのは、現代だって山のように発生している事例だろう。
都会がエラくて田舎が悪い、というわけではないが、人間が生活して行く上で
まず目につくのは便利さだから。便利に慣れてしまえば不便は苦痛だ。
わたしは田舎の縁に住んでおり、都会への志向はほぼない方だと思うが、
それでも映画館も大きい図書館も、博物館も美術館もないような場所に住むのは
おそらく苦痛だと思うもの。

ただし“人々を啓蒙しようとする”キャロルの対決姿勢は、多分この時代、この場所独自と言えるかな。
現代日本の村おこし企画、それに伴う住民の意識改革、そういったものはおそらく今でも
直面している人たちがたくさんいるんだと思うけど、日本の場合、そこには異質性が
あまりない気がする。

キャロルの場合は相手を全く異質な物として捉えている。
――まあこれも仕方のないことか。ヨーロッパ由来の階級性が背後にあるのかな、と思ってもみたが、
異質と言えば、関東から関西へ移り住んだ人、またはその逆の場合でも
おそらく異質性は感じますからね。それは階級意識とは関係ない。

作品のなかでちらっと出て来る、村落の起源というのに少し異様さを感じた。
町の最初の一軒がわかっているという状況は、おそらく日本の集落にはない。
よほど由来のある場所でない限り。
(こないだ見た熊野関連の番組で、役小角縁の者から始まった子孫が住んでいる集落があったが)
始まりが目に見える形で残っていたら、それを変えることは容易だと思うものかな。
長く積み重なった時間がない分。時間というのはそれだけで存在だから。
でも時間の本質は変化ですからね。変わることは止められないんですけどね。
しかし変化のスピードは自在に操ることがなかなか難しいものであって……

いかんな。言葉遊びに堕している。
要は、この本にはそんなに大した感想はないということです。
ちなみに、ジャリジャリ感はなかった。女性が主人公なせいもあるか?

本町通り 上 (岩波文庫 赤 319-1)
シンクレア・ルイス
岩波書店
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結末部分に文句をつけたけど、ハッピーエンドなのは何であれ良かった。

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