おれはこんな本を読みたくなかっただ。
いや、この本がくだらねえといってるわけではねえ。これは立派な、たしかな本だ。
だが痛え本だ。つれえ本だ。読んでるとつらくなるだ。
人間は二つ、種類があるだ。強えのと弱えの。
強え人間はこういう本を真正面から読めるのかもしれねえ。目をそらさねえですむのかもしれねえ。
でも弱え奴は――見たくないだよ。世の中の醜いところを見たくねえだ。
見る強さがねえ。それを見ねえために本を読むだ。
その本がつらかったら、一体おれは何を見てればいいだかね?
目をつぶっても反響するだ。追いかけてきて離れねえだ。ひたひたと水がおしよせてくるように。
すっぽりと包んでしまってよ、いつまでもとどまりつづけるだ。心のどこか片すみに。
商業主義に土地を追われ、仕事を求めて彷徨い歩く農民の家族の話。
遠くカリフォルニアまで行っても、それでも何も手に入れられない。
仕事は奪い合いだ。
果実摘み、綿花摘み。一時期には膨大な人手が必要だけれどもそれ以外の時期には不要になる。
資本家たちは必要以上に大勢の人々を集め、賃金をどんどん切り下げる。
一家が一日、時間に追いかけられるように働いても何とか夕食分の食料を買うのがやっと。
それだって満腹になるほどの量はない。
ジョード家の人たちはおれたちじゃねえかね?
わけがわからねえうちに何かでっかい力に追っかけられて、袋小路に押し込められるだ。
――そしてまた、農場主や銀行はおれたちじゃねえかね?
他人を恐れ、失うことを恐れ、不要なものをためこみ、ぶくぶくと着ぶくれていく。
生きるということがどういうことか、忘れっちまっているだよ。
貧乏が辛いのではなく。辛いのは。希望がないこと。
希望は陽炎のようだ。あそこまで辿りつけばきっと落ちつける、幸いな暮らしがあると人々は信じる。
しかしそこへ行けば何もない。そしてまた遠くに幸いの地が見える。
それを何度も繰り返すうち、人々の目から光が消える。
明日もまた追って追われるだけの一日。満ち足りた日々など永遠に来ない。
同じだ。同じだよ。今も昔も。
神さま。
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