さて……文句を言うべきか言わざるべきか。
標準レベルは軽くクリアしている面白さ。ストーリーの骨格はいかにもSFなのに、
SFに、ともするとつきまとう安っぽさ(自分がこんな風に言うのは切ないが……)がない。
やはり文章がちゃんとしている分、厚みがある、しっかりと立っているということなんだろう。
だが、何しろこれは三部作の三作目で、その一作目は山尾悠子が文体調整をした
「白い果実」なのだ。ここからの期待値で考えると、……うーん。
きびしいかもしれんが、二作目三作目は、言葉が若干痩せている。
いや、先入観もだいぶ入っている評価ではあるけれども。
二作目の「記憶の書」。これも標準よりも面白かったですよ。
ジェフリー・フォードの世界観は独特と言っていいと思う。大変魅力的だ。
……が、言葉の豊饒を前作ほどに感じたかというと、そうとは言えなかった。
やっぱり魔法使いはランクによって、使える魔法の威力が違うんだなーとしみじみ。
世界各国の物語を翻訳で読める幸せは幸せとして認めつつも、
ちょっとした努力ではどうにも出来ない、言葉の絶望的な断絶性がほの見えて少し悲しい。
本作「緑のヴェール」は作りがちょっと逸脱。
ミスリックス側とクレイ側の話が交互に語られ、しかもクレイ側の話は
ミスリックスが“感得した”ものをミスリックスが語る、ということになっている。
つまりクレイの話は――ミスリックスの幻想でないと誰に言える?
クレイはとっくに死んでいるのかもしれない。他ならぬミスリックスの手によって。
(というのが結局最後のオチ――の外皮部分――なのだが。)
こういう信頼できない語り手の語る物語は、その宙ぶらりんな状態を楽しむべきものなのかな。
わたしにはこの辺がよくわからない。芥川龍之介の「藪の中」はまさに“藪の中”の状態を
わざわざ作って、その仕掛けを楽しむものだったが、少なくともこの小説では、
そこをメインに持っては来ていないでしょ。
そこにメインを持って来られない以上、あえて“藪の中”にすることにどんな積極的な
意味があるのかと疑問。もちろんそれがメビウスの輪のようにくるりと世界を変える
大事な要素ではあるけれど。この話にメビウスの輪が果たして必要なのかどうか、という話。
そういう形を取ることで、クレイの物語はシーンの連続になったということもあるし。
わたしはここが、物語として未成熟なのではないかと多少気になる。
原著でどういう表記をされているかは知らないが、翻訳では段落ごとにマークが付けられている。
……記号を必要とする「物語」はあまり姿が美しくないと感じるな。
枝葉末節部分ではありますけれども。
これは、映画を作るとしたらぴったりな書き方だよ。
クレイ側はロード・アドベンチャーだから、その苦難の道程をシーン毎に撮影していけば良い。
そう考えると、この作りは大雑把に言って「ネバー・エンディング・ストーリー」に
似ているかもしれない。原作は確か読んでないので映画の方。
ミスリックスは本に書かれた世界を覗きこむようにクレイの物語を語り続ける。
覗きこんだ世界は細切れのシーンの繋ぎ合わせ。
読んでいる分には特にそれがマイナスポイントにはなっていないけれど、
端正な物語を求める方なので、少々気になる部分。
ジェフリー・フォード。
あんまり翻訳された数は多くないんだけど、これから全部読むつもりでいる。
だが、「白い果実」が山尾悠子によってリライトされたのは、この作家にとって
幸運でもあり不運でもあったね。
3作目の表紙が松崎滋じゃないのが残念だった。
なぜだろう。今回使われているのはパオロ・ウッチェロの「聖餅伝説」。
これが悪いってんじゃないけど、1作目と2作目の表紙が良かっただけに、3作揃えて欲しかった。
それに、今回の表紙は拡大したせいで画像がぼけているしな。
オカネがなかったのだろうか……。
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