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◇ 村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」

上巻の半分くらいまでは、ほほう、と思っていた。
これまで読んだ羊三部作(と前回は書いたが、これは鼠三部作が正しいようだ。すみません)は
ふわふわしていてかっこつけで、カユかったり腹立たしかったりしたわけだが、
本作は冒頭に、相当丁寧な説明があるからね。
このくらい具体的に、ある意味で泥臭く説明してくれるなら可。受け入れられる。

鼠三部作は上澄みだけを書いた作品のようだったもの。
それだけを読まされて、その底に何が沈んでいるのか読みとれと言われても、
わたしのような鈍い奴には不可能。上澄みなんてほぼ無色透明で、
成分分析でもしないと何が混ざってるかなんてわかるわけないじゃないのさ!

うんうん、村上春樹も6年経って、少しは親切になったんだなあ。
「羊をめぐる冒険」は1982年、本作は1988年。この2作は完全な続編。
かっこつけがずいぶん減ったわけだ。まあ、年も取るしねー。

……ああ。もしかしたら、鼠三部作の頃には村上春樹自身に含羞があったのかもしれない。
自分自身をさらけだすことへの含羞が。自分を隠しきったまま文章を書くなんて不可能だと思うけど、
若い頃には自分をあからさまに出すのはどうしても恥ずかしくて、韜晦したくなるんだよね。
彼にとってはかっこつけが韜晦の方法だったのかも。
まあそういうんだったら、あのかっこつけもしょーがないかなー。

村上春樹ギライのわたしにしては、この時点で相当に歩みよっていた。
上巻半分。わりとテンポよくストーリーも進むし、面白い。
登場人物も多少なりと現実感があるし(五反田君以外は)似すぎていて鼻につくということもない。
もしかしてこれは、初の面白い作品になるか?

上巻の終盤にさしかかって警察が来たあたりで、おやおや、と思う。
村上春樹の小説には、そういう硬い現実の要素は出てこないと思いこんでいたが……。
へー。殺人の容疑者として疑われちゃうの?登場人物の一人じゃなくて主人公が?
ほー。そういう生臭い現実から離れたところで話を書く人じゃなかったのか、彼は。

まあでも、ふわふわーっとただ話が進むだけよりは、こういう筋のある話の方がわたしは好みだ。
村上春樹は素直なミステリを書いても実は面白いかもしれないなあ。
ミステリの話を作れるかどうかは怪しいが、文章にさりげないサスペンスを漂わせるのが巧い。
時々ぞくっとするところがあるもの。ほんの一瞬。あくまでさりげなく。

下巻も半分くらいまでは素直に楽しんで読んでいた。
が、その辺を過ぎるとそろそろ心配になって来る。
……あと150ページでちゃんと終わらせられるの?けっこうここまで話を広げたよ?
こういう風に話を持ってきたのなら、ありきたりの結末じゃあ困るのだが。

終りの始まりを読んで、ええ~~~~~~と思う。
……こう来るのかい?え~~、こうしちゃうの?

この作品がミステリ仕立ての話だから、とりあえずミステリとして言えば、話が幼い。
ミステリ国のミステリ学校(というものがあるとして)で言ったら、小学校3年生くらいだろう。
悪い意味でストレートすぎて、肩すかし感がアリアリ。

しかしミステリ仕立てといっても、この話は本質的にはミステリじゃないんだから
そっちの評価は脇へ置いといてもいい。が、普通の小説として、わたしはこの最終部大嫌いだね。
わたしが(少なくとも初期の)村上春樹を嫌う理由がここには充満。
彼は主人公に甘すぎる。

(そういえば、ここからはまるっきりネタバレなので未読の人は注意。)

終盤は二つに分かれる。
五反田君がキキを殺したと判明(いや、判明ではないのか?)した後、彼が自殺するまでと、
主人公がユミヨシさんとくっつくエピローグ。

まず五反田君の部分。

わたしは五反田君が最初から嫌いだった。
主人公に似すぎていたから。主人公の身代わりだったから。主人公の影だったから。
主人公が傷つくことを回避するための単なる楯に過ぎなかったから。
主人公と五反田君が会話している部分、順番や内容を隠して抽象的な台詞だけを選べば、
どっちが言っている台詞かわかりませんよ。都合よく作られた、哀れなキャラクター。

だからこそ、五反田君がキキを殺したという話になった後、
さあどうする?村上春樹。
とわたしは身構えたのだった。主人公は五反田君にどう対するのだ。
キキは――わたしはキキを詳細に定義は出来ないんだけれども――主人公にとっての大事な過去。
その大事な過去を殺した自分の影に、主人公は一体どういう態度を取るのだ。

そーしたら。……主人公は五反田君を生温くかばってしまうのだ。
本をたった今返してしまったので実際の台詞がわからないのだが、
「君は殺してない」だか「キキは殺されたかったんだ」だか何だか言って。
さっぱり意味がわからないよ!!(←激怒)

たしかにキキは乗り越えなければならない壁だったのかもしれない。大事な過去とはいえ、
人間は過去だけに寄り添っては生きていけないという意味で。
別に殺さなくってもいいだろうとは思うけど、話としてキキを殺すのは許容してもいい。
が、それは主人公がやるべきことだろうが!!

五反田君という影を作りだし、汚れ仕事は全部彼にさせて、そしてあっさり彼の自殺で終幕。
そこに主人公の葛藤はあるのか。葛藤はあるように書いているが、それはあくまでも二次的な、
傍観者としての葛藤になり果てている。だって彼はキキを“殺されてしまった”わけだから。
僕にはどうしようもなかった、という顔をして被害者のような顔をして五反田君を慰める。
けっ。置きゃあがれ。お前が黒幕だろうがよ。

五反田君の自殺で事を収めたのも、また第二弾の腰砕け。
つーかさ、この作品で本当に書くべきはキキを探しての過程ではなく、まさにキキの死についての
葛藤じゃないのか。それを描くために五反田君というキャタクターを作ったんじゃないのか。
別に主人公がキキを殺したでもいいんだよ。むしろその方が良かったんだよ。
五反田君に責められて、主人公が腸をひっくり返すように自分を省みて。
それでこそ意味がある。それでこそ純文学だろう。
そこまでの強さがないんだったら、純文学でございなんて顔をするなっ!!

そこで一番大事なところを無視して話を進めるところが新しさなのか。
自分にそこまで甘いところが、時代の雰囲気を映していることの証拠なのか。
傷つかない主人公に癒されるところが現代人の孤独を写し取るってか?
あー、あほくさいあほくさい。

あほくささはエピローグに向かってさらにボルテージを上げる。

キキは死んで、キキを殺した五反田君は自分で勝手に自殺して、あとくされなくなった主人公は
きれいさっぱり新しい女(未来)の所に向かうわけやね。
このユミヨシさんとの関係も、わたしには全く納得出来ない。
運命的に出会った二人なわけだ。お互いにピンと来て、それだけでいいわけだ。
けっ。

主人公がユミヨシさんにかきくどく台詞のヒドさったらないね。
男が女に言う口説き文句で最悪だね。
あれでは百年の恋も醒めるってもんだろう。でもユミヨシさんはそれでいいわけだね。
主人公に都合よく。主人公が傷つかないように。それだけの人だから。
この話はほんとに全くもう、それだけだよ。

こういう話を村上春樹が自分だけのために書くなら、それはそれで別にいいけど。
こういう話を読んで、主人公に同化して読めれば、それはそれでいいけど。
わたしは自分にアマイ話が本来大変好きだし、現実生活が概ねツライ以上、
フィクションでせめて癒されたいと思うのは
それは無理がないことだと常に思っているけど。

でも癒されたいだの弱いだの、甘えだの、そういう本来かっこ悪いことを、
かっこよさの糖衣でくるんだ村上春樹の作品は嫌いだね。
かっこ悪いことをかっこいいと錯覚させる欺瞞が嫌い。
かっこ悪いことはかっこ悪いと、そこはせめて理解しながら受け入れなければ、
自分の位置さえわからなくなってしまうよ。

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……この五反田君、最初から最後まで、わたしはNHKの青井アナウンサーのイメージで
読んでしまった。青井アナウンサーは別に役者じゃないけどさ。
わたしにとって、爽やかな好青年のアイコンは青井アナなんだろうか。なるほど。

今朝、夢でこんなことを言われた。
「あんたが好きな“きれいで優しいお話”と村上春樹の“かっこつけで自分に甘い話”は
結局そんなに変わらんやんか」
……自分の無意識に叱られるワタシ。くーっ、たまらんなー。

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