修復のため1年ほど?閉館していた仙台市博物館がリニューアルオープン。
その初回のエキシビがこれ。
うむ。さすが開館一発目に持ってくるだけあって、なかなか見応えのある。
いや実は、もう少し密度の薄いものを想像していた。
チベット仏教。あまりモノがたくさんある印象がない。仏像や仏画はそれなりにあるだろうが、
あとは地味な、経典とかマニ車とかが並ぶのではないかと。
そうしたら、かなりの線でキンキラキン。豪華でした。
何がキンキラキンと言って……ミンドゥリン寺収蔵の5人のインド人修行者の肖像彫刻がすごい。
こんなキラキラ、ビカビカでそれでも肖像彫刻になるなんて想像だにしなかった。
日本だと肖像彫刻と言えば鑑真和上像とか空也上人とか……渋く、枯れた感じの味わい。
ま、ツタンカーメンのマスクも黄金製なんだから、そこまで驚くことではないかもしれない。
5人のインド人修行者は、初期に法統を継いだ歴史上の?人らしい。
とはいえ、最初のナイラートミヤー(これは女尊。チベット仏教には女性の行者がいる)は
三つ眼があったりするし、次のヴィルーパもあまりにもお腹がまんまるだし
(これはこれで正確な写実なのかもしれんが……)、
3人目のダマルパくらいからが「いたんだろうなー、こういう人」という人間感。
実はダマルパに惚れました。かっこいい。
写真で見るとアヤシイ顔なんだけど、現地で見るとこんな顔ではなかった。
もっと意志的な顔というか。
三次元である彫刻作品は角度によって印象が違うんだから、
360度から見られるように、展示方法をもう少し考えて欲しかった。
タンカが総じて良かった。
タンカとは宗教画の掛け軸ごときもの。ここにあったのは13世紀頃から20世紀にかけてのもので、
作風や内容も様々だが、絵としてはどれもかなりカラフル。
「金剛宝座如来坐像タンカ」チベット18-19世紀。この位になると線が完成されすぎちゃって、
むしろ少々味がないかな?こういう絵柄のマンガ家がいた気がする。
「マチク・ラプドゥンマ坐像タンカ」チベット17-18世紀。とても細かく書かれていて繊細。
色彩が、褪せたのかそれとも最初からこういう色だったのか、中間色の優美さ。
絵柄と色合いで、クリュニー美術館にある「貴婦人と一角獣」を思い出す。
「グヒヤサマージャ坐像タンカ」明の永楽帝が寄進したらしい。織物なので立体感がある。
本尊の藍色の肌があまり褪色もなく、生き生きとしている。細部まで素晴らしい仕上げ。
永楽帝はチベット仏教に信心深く、この他に「チャクラサンヴァラ父母(ぶも)仏立像タンカ」も
エキシビに来ていた。これも見事な出来。えらいぞ、永楽帝!
「金剛亥母立像タンカ」チベット13世紀後半。赤い仏像。どう見たってヒンドゥー教っぽい。
「カーラチャクラマンダラ・タンカ」四角と円のデザインがかっちり決まっている。
東を白、南を黒、西を赤、北をオレンジで塗り分けたその整然とした構成がきれいだね。
仏像も、大物は来なかったけど、かなり粒ぞろい。
千手観音の類の印象が強い。実際に千はないだろうと思うが、手をびっしり作っている。限界に挑戦。
しかしここまでされると造型的に美しさを感じるより、
「宝塚……」(←手がまるで宝塚のレビューで背中につけた羽根のように広がっている)
とおかしくなってしまうわけで。
菩薩系統はさすがにそうでもないんだけれど、基本的にチベット仏教の仏たちはみな踊る。
っていうか、ふと気付けばわたしは、ヒンドゥー教とインド仏教、そこから影響を受けたはずの
チベット仏教の神仏体系ってのがさっぱりわからないぞ!
日本仏教にもインドの神様が色々入り込んでいるが、チベットあたりの場合、
さらにインドとの関わりあいが濃厚で、仏教美術を見ているんだか、
ヒンドゥー教の神像を見ているんだか、さっぱりわからなくなってくる。
ダーキニーとか、冷静になって日本仏教の位置から見ると、非常に異質……。
最近「仏教とは」ということを考える機会があったのだが、
もうアジアの宗教は何でもありな気がしてきた。
というか、何でもありだと思わないとツライ。こんなに混淆していて、
線引きをきちんとすることなんて出来るかい!!
宗教については、自他の厳密な区別を求めない方が世界は平和である気はするけどね。
彫金細工も美しかった。デザインのみっしり感がケルト文様を遠く響かせる。
ふと気付くと唐草の地に動物文様が紛れ込んでいたりして。
地続きなんだし、影響を与える・受ける関係が絶対あり得ないとは言えないよね。
久々にかなり気合を入れて見たのですっかり疲れた。人出も相当でした。
展示の順番と出品リストの順番が違った。そこは微妙にマイナス。
でも展示数に比べて会場が狭いうらみはあったから、仕方なかったんだろうな。
もう少しぱらっと飾れれば混み具合も緩和されただろう。
ずっと昔にポタラ宮の佇まいをテレビで見て、以来ラサには心のどこかで惹かれている。
……が、体力のなさから、永遠に訪れることはないであろう場所です。
だって海抜がほぼ富士山と同じだよ。無理。絶対無理。
それなりに普通に人が暮らしている場所なのに、自分がそこに行けないと認めることは
ある意味で口惜しいけれども、その反面、人間という種の環境に適応する能力のすごさを
感じることでもある。人間は、マイナス50度でも生きていけるし、
海抜4000メートル近くでも生きていける強靭な生物なんだ。
ただしその強靭さが地球環境にはマイナスに働いている気はする。
あまり何でも出来るようになってはいけないものなのかもしれないね。
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