タイトル的にはヨット旅行かなんかのエッセイかしらん、というところだが、
これが実は本人の読書歴を軸にした自伝(?)。
まあ自伝とまではいかんけれども(池澤は自分のことを書くのが嫌いだそうだ)
書物の海を旅した記録と、そこで出会った何冊かの重要な本。そういう内容。
……こういうミスリードなタイトルでは営業的にどうかと思いますが、イケザワさん。
まあ1995年発行の本に今さら言っても仕方ないが。
そもそもわたしが心配する筋合いでもないけれども。
ちょこちょこ反応する部分があった。
○詩は目で読むものではなく、声に出して読むもの
たまに言われることかもしれないけど、納得したのは今回が一番かもしれない。
読みあげてこその韻文かあ。たしかに、そうでないと押韻の必然性が少ないんだよね。
ただ、日本の詩においては、一概にそう言えるものかどうか……。
日本の詩はそもそも押韻を気にしない。和歌では「の」の繰り返しとか、学校で習うけど。
あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
和歌、漢詩は朗詠されたから、音にもある程度は気を配っただろうが、
ずっと下って俳句になるとどうか。
むしろ俳句は、その短さから、朗詠には向かない詩形式のような気がする。
五七五とはたしかに口ずさみやすい韻律ではあるんだけどね。
五七五という定型をとることによって、その定型の部分だけが意識されるようになり、
(その定型を守っていれば、少なくとも口調の良さだけは確保出来るのだから)
音の良さ、という部分は逆に忘れられたのではないかな。
日本の現代詩が七五調から自由詩に移る時に、読みあげるという部分はきっと
忘れられてしまったな。これは翻訳詩が多く入って来たこともマイナスに働いたかも。
翻訳は、意味を相手にする作業で、音まで気を使って訳したとは思えない。
思えないって、わたしが思っていないだけですが。
でもわたしは中原中也は読み上げて楽しんでいたし(池澤には「単純すぎる」といわれているが)
多分中学校くらいで読んでいた新川和江編の詩のアンソロジー(和洋混淆)も読み上げていた。
なので、どこかには朗詠の遺伝子が残っているんだと思うね。韻文には。
○作家の仕事は、「書くこと」以上に「考えること」。
作家は普遍的・根源的なところに戻って考える。
作家の思考の基本にはどんな場合にも二項対立がある。
作家が使う「考える」という動詞には最初から弁証法が含まれているのだろう。
……という話をしているが、わたしは二項対立も弁証法もよく知らないので、
彼が何を言っているのかよくわからない……。
彼は「人と世界」という目で物事を捉えているらしいが。
ここまでを整理してみれば、ぼくはいくつかの分類を通じて自分というものを
定義しようとしているらしい。思考を専らとする者という項目にまず自分を分類し、
その次には二項対立という構図を用いての思考(すなわち文学者)の項目を選びとり、
その先で「世界対人」の対立型にマークを付け、次のステップでは世界に対する関心を
地理と歴史で分ける選択肢で地理の方を取る。
ふーむ……。二項対立か。二項対立ねえ。
○小説の面白さはどこから来るか?
こんなテーマなら思わず食いつくぞ!小説の面白さはいったいなんなんだ?
……と思ったが、読んで苦笑。池澤さん、それはないやろー。
自分が作家の側に立ってみてわかったのは、ひそかなる援助があるということである。
いわば、どこかに秘密の基金があって、われわれ作家はそこからこっそりと利子補給を
うけているらしい。(中略)世の中には小説だけの面倒を見る特別の天使がいて、
作品が出来上がって印刷されるまでの間にすばやく魔法の粉をふりかけてくれる。
そうすると、文章だけで贋の現実を作って人々に信じさせるという、本来ならば
絶対に不可能なことが可能になる。
自称理系が、こんなファンタジーでいいのか……。
まあわたしは基本ファンタジーな人間なので、こういうのは好意的な苦笑ですむんだけどね。
嫌いじゃないよ。こういう書き方は。……一応のまともな結論を出した上での話ならば、
もっと良かったけど。
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ふふ。ふふふふ。そして真打。
わたしは以前書いた。
「あとは池澤が辻邦生について語る言葉をどっかで読みたいもんだ」と。
本のカミサマは時々願いを聞き届ける。この本の11章「M氏とT氏」はまさにコレ。
ちなみに最初に言っておくと、M氏は丸谷才一、T氏が辻邦生。
そうかぁぁぁぁぁぁぁ。面識があったのか……………………。
しかもこういう関係かぁぁぁぁ。(と、これくらいひっぱるほど感慨深い)
この本で、池澤夏樹は日本人の作品には総じて高い評価を与えない。
というと語弊があるが、傾向としていわゆる日本文学は好きではないらしい。
うねうねとした女房文学なんかも肌に合わないだとか……。
まったく、あんなにファンタジーしといて、こういう時だけ理系顔をするんじゃないよ。
そんな池澤が丸谷才一「笹まくら」、辻邦生「夏の砦」を読んだ時は、
その新しさと面白さに強い印象を受けたそうだ。
作品として新しいのではなく、書く人が新しい。一言でいえば、
こんなものが書けたらどんなにいいだろうと二十代前半の、
それまでの日本文学に満足していなかった小説読みに思わせるような新しさだったのだ。
後に池澤はこの二人に会う。実父が福永武彦であるというコネを利用して。
丸谷才一は置いておいて、辻邦生は、福永武彦と同様に学習院大学の教授(か講師か助教授か)
だったので面識を得たのだそうだが。辻邦生は「文学の方へむかってスタートすることが
遅かったぼくをずいぶんはげましてくれた」。
そうか。そういう繋がりがあったのか。
もちろん池澤は辻邦生の弟子として作家になったわけではないし、
辻邦生も印象としては他人に親切だった人のような気がするから、
他の新進作家や作家の卵にも同じように親切だっただろうけどね。
……うーん、やっぱり感慨深い。そうかそうか。そうだったか。
わたしは数年前から池澤をツブし始め、2005年までの発行分で、残りはあと5冊。
このタイミングでこの本に出会わなければ――始めの方の出会いなら、
そもそも池澤が辻について言及したものを読みたいと思っていないわけだし、
(わたしが辻邦生と再会するのは3年半前に読んだ「春の戴冠」)
その時点でこれを読んでも感慨というものも別になかったに違いない。
さらに言えば、わたしは現在辻をツブしている最中で。うーん、半分くらい読んだかな?
そして「夏の砦」は未読。今後読む場合に気合いを入れて読める。
本のカミサマは時々親切。
この本は池澤が40代半ばに書いたものを集めた本だが、読みおわってわたしは少しニヤニヤ。
……まだ若いのう、池澤さん。
書き方に気負いが見て取れる。半ば自伝、という内容のせいかもしれないが。
わたしが初めて池澤と出会ったのは、たしか「ハワイイ紀行」だったと思うが、
その頃はもう気負いという部分はだいぶ薄れていた。
まあインテリ臭はいつまで経っても消えないけれども。
……そこを含めて嫌いじゃないんだけれどもね。
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