佐伯一麦は5冊読んだ。
そのうち「遠き山に日は落ちて」「少年詩篇」は寂しげだけどもほんのり明るさがある話。
今回の「鉄塔家族」は、ほのぼのとしたエピソードが大部分でありつつも、痛い話。
「木の一族」はもっと痛い。(残り1冊の「蜘蛛の巣アンテナ」はエッセイ。)
前者と後者の違いはほんのわずかなものなんだけど。
曇り空でも明るい曇り空と暗い曇り空があるでしょ。それくらいの差。
佐伯一麦は私小説の人なので、地元民が読んでいると、どこのことを書いているか如実にわかる。
そういう意味での面白さはあった。また、自然風物に言及することが多いので、
そういう所は好きだよ。野草とか野鳥とか、人の描き方も丁寧で基本的にいい人が多いし。
だから、「遠き山に日は落ちて」と「少年詩篇」はわりと好きだった。
でも、他人のトラウマを読まされるのは。
わたしは痛い話は読みたくないんだよ。なので「鉄塔家族」は嫌いだった。
一番嫌いで、どうなのそれは?と言いたい部分は、別れた奥さんを書く所。
作品中、元奥さんは人格破綻者にしか見えない。ここまで現実に即して書く(ように見える)人が
こんな風に書くと、この奥さんは実際にこんな人なんだろう、と思わざるを得ない。
――わたしはここに大変腹が立つのだ。
佐伯一麦は作家だから――作品を書くことで、鬱憤を晴らせるというか、
自浄作用にすることが出来るだろうが、こう書かれた奥さんの立場は?
反論の手段を持たない人に対して、あまりに暴力的な仕打ちではないのか。
私小説。
小説ということは虚構ということでよろしいか。
しかしその虚構を限りなく現実に近いように書くということはどういうことなのか。
ここまで現実っぽく書くなら、なぜ告白記・エッセイとして書かないのか。
フィクションに逃げているのか。フィクションだから、と言い訳にする?
あるいは「私小説」「純文学」じゃないと商品価値がないから?
本人の身になって考えてみてくれよ。
人間なんて完全なもんじゃないだろう。
ましてや夫婦間なんて、一番自分の悪い部分をさらけ出す関係だ。
その夫婦間の事を、一方的に公表される。
配偶者が私小説書きだったら、わたしは我慢出来るとは思わない。
千里先まで飛んでいけ、と腰をけり飛ばして追い出すと思う。
でも例えそうやって別れても、過去のことをぐじぐじといつまで経っても書かれるんだよ。
恐ろしい。下手なストーカーよりずっと始末が悪い。
文学的に価値があれば、身近な人が傷つこうが何でも書いていいの?
両親の肉体的な病気のこと、お姉さんの精神的な病気のこと、息子の家出のこと。
本人たちは書かれたいと思っているんだろうか。むしろ絶対嫌だと思っているんじゃないだろうか。
本人が書かれることを是認している内容ならば、かまわない。
しかし元妻は、あんな風に描かれたいと思っているはずないだろう。
「木の一族」で、離婚寸前まで行っている頃、妻は言った筈だ、
「私のことは書かないで」と。
それさえも書く。――私小説書きというのは、なんて厭らしい、無体な生き物なのか。
そして書き手はその文章を売って生計を立てているわけだよね。
なんかものすごく――非道ではないか。身近な人を食い物にする。
ヤクザと変わらんな、と思って、ああ、なるほどと納得をする。
日本近代文学黎明期からしばらくの間、文士なんてもなぁ極道扱いだったはずだ。
時代が進んでエンタメ小説が普通になるまで、おそらく日本の出版界は文学≒純文学≒私小説、
という系統に占められていたはずだから。
今の時代でこそ作家先生かもしれんけど、当時は極道。普通の人間の常識が通じない。
それはそういう意味だったのかもしれない。
※※※※※※※※※※※※
純文学というのは「自分のために書いた作品」だと思っている。
そうだとすれば、エンタメ小説においては大なり小なりある、書き手と読み手の間の
需要と供給関係は、純文学には全く無くて当然。断絶していてしかるべきものだと思う。
書き手は書きたいように書く。
読み手がそこに価値を見出すかどうかは、書き手には全く無関係のこと。
書くことは止められない。
本人の切実さにおいても、他人が介入出来ることではない、という意味においても。
だが、それを発表するということはどうなのか。
仕事として行うということは、どういうことなのか。
それが「芸術作品」だから、少数が傷つけられても泣き寝入りしろって?
このあたり、私小説書きはどんな風に考えて書き続けているんだろう。
どーして、せめてもう少し小出しにしないかな、と思うよ。
一から十までべったり「現実」を書くより、色々な作品に自分の体験を分散しないかね。
どーせ創作なんて、大なり小なり自分の体験を基にするしかないわけじゃないか。
であればおっくうがらずに、それこそ「フィクションですから」と逃げられるように、
架空の状況を作って書けばいいのに。
「書き手は書きたいように書く」「書くことは止められない」
……それは重々頭ではわかりつつも、現実に重きを置かない(絵空事を書く事を重視する)
わたしは、私小説の意義が認められない。
こないだNHKで池澤夏樹のインタビュー番組があった。
その中で彼は「結局自分のことを書くのが一番楽なんですよ」と言っていた。
「楽」の意味にも色々あり、池澤が言ったのは最も単純な意味でであろうが、
なんていうのかな、ネタとしてはたしかに一番簡単だよね。
人間、何よりも関心があるのは「自分」のことなんだから。
わたしは短絡的に、そうか、私小説書きはネタ探しにおいて易きに流れているわけだな、と
納得した。ネタ探しという意識すらなしに。それ以外を書くことが想像も出来ないんだろう。
私小説とは、ということを“簡単に”解説してくれる、何かいい本はありませんかね?
わたしは文学的素養があまりないので、新書程度の簡単さでいいのだが。
Wikiに名前があがる文学論を順番に読んでみるべきなのだろうが、その根性はない……
代表的な私小説として挙がっているものを見ると、4,5冊しか読んでないしなあ。
でも昨今の新書のレベルを考えると、新書で概観するというのはもうキケンなことだろうか。
コメント