白洲次郎関連本は3冊買ったな。
そのうちの1冊は薄っぺらくてアカンかった。
ちなみにそれは馬場啓一「白洲次郎の生き方」。これは止めておいた方がいい。
……と書いて、アマゾンを見てみたら、レビューでみんなが激怒していて笑った。
わたしが読んだのはずいぶん前なので、ダメだったということしか覚えてないけど。
他の2冊をさくっと。
青柳恵介は骨董繋がりなので正子側の人だが、次郎についての本を何か1冊となれば
これでいいんじゃないかなあ。
他を色々読んだわけではないので、数ある中でのベストかどうかはわからないけど、
ちゃんと書いている感じだ。
下は白洲次郎ファンの皆さん(?)に貸したら好評だった本。写真が多くてきれいだし、
色々な人の次郎の思い出話も載っているから愉しい。
ただ、1冊だけ読む場合は、こういうヴィジュアル本というのはちょっとね。
牧山桂子さんが書いた、ご両親についての本はわたしも読みたいかなあ。
いずれ読むかもしれない。
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でも「読む」のだったら、白洲正子の著作の方を実は薦めたい……。
次郎よりも正子だなあ、わたしは。
正子の著作は「まず何よりもこれ!」という1冊が……うーん、思いつかない。
「かくれ里」あたりがいいのか。でもわたしは未読。買ってはあるんだけどね。
わたしが最初に読んだのは――記憶の彼方だが、多分「○○抄」のうちの一冊を何の気なしに
読んで、「誰なんだ?この偉そうなオバハンは」と思ったのが最初である気がする。
その時点では白洲正子について、全く何の知識もなかったから、
この人はどんな背景があってこういうテーマでこういう文章を書くのか、不思議でしょうがなかった。
だから次に「白洲正子自伝」を読んだんだと思う。
「自伝」を読むと彼女の背景がわかるから、他の著作も落ち着いて読めるようになるんだけど、
でも最初の何もわからないうちの混乱も我ながら面白かった。
「○○抄」は一応ベスト・エッセイ集なんだろうから、そのうちの1冊というのは悪くないかもね。
彼女の根本は能、それから次に骨董という順番だろうが、能は、興味がある人なら別だが、
内容を汲むのが難しいジャンルではなかろうか……。
まず何か読むならば骨董と旅物がお薦めかな。
この辺り、良かったと思う。
しかしこの人の古典文学ものは少々食い足りない気はする。あまり薦めない。
(「花にもの思う春」は良かった覚えがあるけど。「西行」は古典文学というより人物評伝)
文字を読むより、具体的な物に対した時にその目が活きる人なのではないか。
骨董しかり、仏像しかり。
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わたしのイメージだと、次郎はシンプルな行動の人、正子は激しい陰影の人。
……まあ夫婦揃って、(特に若い頃は)鉄火な感じですよね。
2人並べば絶対正子が強かったと思う。次郎は多分、正子の精神を本当には
わからないタイプの人だったかもしれないな。だからこそ上手くいったのかもしれない。
実は、次郎にしても正子にしても、昨今持ち上げられすぎて……個人的にはちょっとキモチ悪い。
彼らは欠けている部分も多かった。(どこが、とは言えないが……)
欠けている部分を意識しながら、突出した部分を味わって吉。
次郎はそのシンプルさを、正子はその感性を。
余談だが、白洲次郎に関連して「プリンシプル」という単語が出てくる度に、
塩野七生のエッセイを思い出す。
これの31章「不幸な男」に、ウォーモ・ディ・プリンチーピオというイタリア語が出てくる。
訳せば原則に忠実な男。
塩野七生はこのエッセイで「ウォーモ・ディ・プリンチーピオ」は不幸になると言っている。
(どういう文脈でそういうことになるかは、実際に読んでください。)
まあ、白洲次郎の言に対するものではもちろんなく、双方の関係はないんだけどね。
白洲次郎がいうプリンシプルというのは、おそらく「自分の背骨になるような行動規範
(=原理原則)を持て」という大原則だろうし、
塩野七生が言うのは「原理原則ばかりで多少は融通を利かせないと不幸になるわよ」という
大原則に対する、もっと卑近な但し書きみたいなもん。
プリンシプルを持った生き方が全く見当たらない現代社会においては、
但し書き注意の存在意義もなかろうという感じだが、
でも昨今の持ち上げられ具合で「そうか!プリンシプルか!」と変に凝り固まった人が出てくるのも多少心配。
どっちの視点も大切ですよね。この道を行くと決めたからって、その途中にある邪魔なものを
破砕していくのでは周りが迷惑この上ないし。兼ね合いですよ。
……ものすごい余談だが、わたしは今、顔から血の気が引いた。
卑近。――これって読み仮名「ひきん」なんですかっ!?
今までずううううううっと「ひぢか」と読んで来たのにっ!
だってだってだって、「間近」は?「身近」は?「端近」は?「手近」は?
みんな「―ぢか」じゃないかああっ!
……これは数年前に「かきいれどき」を「書き入れ時」だと知った時よりもショックだ。
わたしは「掻き入れ時」だと思っていたのに。
袋に小判をがっぽり掻き入れるイメージ。ある朝、新聞に「書き入れ時」と書いてあって、
「これ間違っている」と言ったら反論され、調べてみたら「大福帳に書き入れることから」……。
もっとさかのぼって、高校の時に「得」という漢字は、右側の日と寸の間に一が入ることに
気づいた時と同じくらいのショック。――それまでは「得」、日と寸だけで書いていた。
いやいやびっくり。まあ「ひぢか」と口に出す機会もそうはないだろうけれども……。
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