実際に見れば多くの人が「ああ、あれ」と思う、有名なポセイドン像。
アテネ国立考古学博物館の展示室、それが見えた時にわたしの頭に過ぎったのもそうだった。
手が惰性でカメラのシャッターを切る。
気合の入っていない証拠に、その時撮った写真はかすかに傾いている。
シャッターを切った後、眼はもうそこから離れて他の展示物へと向かう。
これが有名作品の弊害。写真や映像で何度も見ていると、実物をもう知っている気になって、
ちゃんと見るということをしなくなる。
だが室内を一巡りして、たまたまポセイドン像を正面から見上げた時、思わず息を呑んだ。
これが、あの像なのか。
この作品は通常、真横から見た体のバランスの美しさを鑑賞する。
筋肉をまとってまっすぐ伸びた腕のライン。しっかりした体幹。すらりと長い脚。
筋肉が筋肉らしく見えるブロンズの色。
紹介写真では常にそのアングルで掲載されているし、それはそれで正しい。
だがその構図で見ている限り、この像の他の部分は見えない。
写真では、つまり一方からの視点を強要される。
ほぼ二次元の絵画作品ならば、写真で見ることの意味もあるかと思うが、
三次元である彫刻作品では、写真では絶対に伝えられない要素が大きい。
実際に見てわかることがより多い。
ポセイドン像を前から見て、その威厳にうたれた。
前方へ伸ばした腕が、何と効果的なことか。右手で構えているのは後述するように
三又槍にせよ雷電にせよ、いずれにしろ彼の武器。
つまり、これから彼は何かを攻撃しようとしているところ。
前方へ伸ばした手は、敵へ対する警告であり呪いであり、神のその手を向けられた者は
それだけで体が動かなくなってしまうほどの恐怖を覚えるだろう。
表情は静かで激情の欠片もない。神にとっては何ほどのこともない、虫けらのような相手なのだろう。
手そのものも美しい。
全体ではなく手だけを見た時、小指側から見るのが良い。丁寧に作られた指。
また横から見たのでは気づかないが、前から見ると手の指はわずかに広げられており、そこに表情がある。
美しい仕事には優美さがある。優美は優しい。
先に「警告であり呪い」と言ったけれども、手そのものだけを見ると、
同じ手が祝福を与えても全くおかしくない。
だが。
何度も写真を見直して思ったが、この作品は実は欠点がないか。
部分部分は完ぺきだけれども――横から見た時の上半身と下半身のバランスに微かな違和感がある。
上半身は十分に発達している。壮年の神としてふさわしい肉体だ。
しかし、脚が細すぎる。むしろ青年像にふさわしい若々しい脚になっている。
この作品を作った彫刻家は理想を欲したのだろう。この時代の全ての彫刻家と同じように。
そしてそれは九分九厘成功している。
だが、わずかに。別の理想になってしまった。薄皮一枚の差しかないけれども。
像の右足。横から見た時に、人間の脚としては有り得ない形になっても、
右足のみにもっと肉をつけるべきだった。左足くらいの肉付きがあれば違和感はなかったはず。
もちろんそうすることで、実際の体としてはバランスが崩れた体型にはなる。
が、エンタシスのふくらみを始めとする錯視への配慮を忘れなかったギリシャ彫刻ならば、
そのごまかしは手段として有り得たと思うがどうか。
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この像は、発見された場所にちなんで「アルテミシオンのポセイドン」と呼ばれているらしい。
長らくポセイドン像とされてきたが、最近はゼウス説が強くなっているそうだ。
曰く、海神ポセイドンならば持っているのはトライデント(三又槍)であるはずだが、
槍の長さを想定すると、真横から見た時に槍と像の顔が重なってしまい効果が薄れる。
制作者がそこに無頓着だったとは思い難い。
その点、ゼウスであれば持ち物は雷電のため、顔と持ち物が重ならずに済むとのこと。
わたしとしてはゼウスでもポセイドンでも、学術的な決着はどちらでもいい。
だが、昔から地元の市民会館に飾ってあった縮小レプリカは「ポセイドン像」だった。
ポセイドンということにしよう。
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