中島敦は若くして死んだ。残された小説はこの全集1冊に収まってしまうほどしかなかった。
全集最初の4つ短編、これが中島敦の作家としての自己告白。
「狐憑」は物語る者の運命を。
「木乃伊」は過去に囚われた者が陥る迷宮を。
「山月記」は己の飼う猛獣のような自尊心を。
「文字禍」は文字に対する怖れを。
この短編を読んだ時点で、わたしは決めた。彼はこっち側の作家だ。
その他では、「悟浄出世」と「悟浄歎異」が好きだった。
これは、読む前に「こんな作品だろう」と思った、まさにその通りの作品。
……しかしどうしても岸部シローの顔が浮かんでしまいます。
実はあの「西遊記」の悟浄のキャラクターは、この小説と重ねて読んでもあまり違和感ない。
良く言えば理論派・悪く言えば口ばっかりというのは原作からしてそうなのか?
それとも脚本のジェームス三木が中島敦を読んでいたのか。
有り得ないとは言えない、この辺りなら読んでいてもおかしくない。
名文という観点からも、ひそかに期待していた。
わたしは、水のごとき涼やかさを持った文章を名文と言いたい気がしている。
そういう目で見れば中島敦は名文だと思う。とてもストレートに書く。
いや、漢学の素養が溢れるほどあった人だから、時々「うわ」と思うほど
難しい漢語が使われてはいるけれど、それは読み手の問題であって、書き手は気負って使っていない。
淡々としたところが好きだ。
わたしは「全集は読むな!」派だけど、この1冊はいい出来だと思った。並べ方がいい。
単純に時系列に並べているわけじゃないよね?
でももしこれを時系列として考えると、中島敦の作家人生が非常にわかりやすいと思った。
初期短編。作家としての初めの一歩。そこに全て出ているエッセンス。
→南洋物。自分の体験を基にして描き出すという挑戦。目の前の事物の魅力を写す。
→南洋から帰って、また初めのスタンスに戻る。が、内容が少し深くなり、また写実も含まれる。
身近なところに題材をとる、あるいは自分のことを書くなどバラエティが出てくる。
→没後の出版物。「弟子」と「李陵」がそれだったのは、「作家の血肉となっている中国」を表す、
象徴に思える。もちろん作家がもっと長生すれば、中国物ばっかりで終始もしなかっただろうから、
本人の意図したものではなかったと思うが。
以前、野村萬斎が演出・主演の「敦」という舞台があった。
テレビ放映されていて録画したんだけど、ほとんど見ないで消去してしまったんだよなー。
今となっては最後まで見たかった気がする。またやらないだろうか。
読んだ後で見ると、違うものがあるかもしれない。
コメント