ちょっと前の新日曜美術館で紹介されていた。
この文章には疑問があって、
>作者は皆、正規の美術教育を受けたことがなく、知的障害や精神疾患などを抱える人びとだ。
こう書くと、アウトサイダー・アートは、
「知的障害や精神疾患を抱えた人々による」ということが必要条件。
が、本当にそうなのか?ここは大事な部分なので、言葉が独り歩きする前に
定義をちゃんとしてほしいものだと思うが……
言葉なんてのはあくまでも自然発生的なものだし、現状を追認する形の方が多いけれどね。
ただ、単語の意味が人によってあまりにも違う、ということになると日常生活でも齟齬をきたす。
(以前「情けは人のためならずと言うからね」と言った所「ひどい」と反応されたことがある。
……ま、日常でアウトサイダー・アートのことを話題にする可能性は低い)
それから、アール・ブリュット(最後のtは発音するのか?)に対する訳語として
「生の芸術」があてられているが、これも微妙だな。
フランス語を知らないと「brut」は出てこない。つまり漢字しか頼るものがないが、
これを「せい」と読むか「き」と読むか「なま」と読むかで、相当に印象は変わってくる。
このへんを何とかしてくれないと落ち着きませんな。
かといって、「ではこう決めましょう」と決定する機関はどこにもないわけだが……
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テレビで見た作品には、それぞれ重みがあった。
いや、むしろ「重たさ」があった、と言うべきなのかもしれない。じわりとした重たさ。
う、と呟きたくなる。
基本的に「表現」というのは他者へと向かうものだ。
あえてプロの商業主義云々言わなくても、受け手の存在を必要とする。
が、アウトサイダー・アートは外へ向けての方向性は強くない。むしろ反対に内へと向かう。
プロの饒舌な作品に対して、アウトサイダー・アートは寡黙だ。
この1時間番組(正確には45分)を見ただけで言うのも間違っていると思うが、
彼らはおそらく「表現したかったもの」のために制作しているんじゃないんだろう。
アウトサイダー・アートは、完成型のためではなく、多分その過程のために存在する。
というのも、彼らの作品には反復が実に多い。
電車のデザインを延々と描き続けるのも、架空の街を畳何畳分というスペースに描き続けるのも、
極小の漢字を紙にびっしりと書き連ねるのも。
ルーティンワーク的なその「作業」、それが目的なのではないか。
ルーティンには心地よさがある。
手仕事をせこせこやっていく心地よさ。が、意外に快適な反復動作をずっと続けられる
作業というのはそれほど多くはない。とすれば、結果として「発表の場を特に求めない作品」
(しかし実は作品ではなく、作業の結果としての物体)が出来あがるというのはありそうな話だ。
彼らの作品にあるのは、反復の重み。継続の重み。かけた時間を感じさせるからこその重み。
造型的にどうこうというものではない。(まあこれは現代アートのかなりの範囲にあてはまるが。)
試しに、彼らの作品をほんの少しだけ展示してみるといい。一枚とか。一部とか。
かなり印象は変わると思う。迫力は減じ、ただの落書きになってしまうだろう。
やっぱりわたしは、アートは技術であってほしいと思っているので、
こういう存在に対してはあまり範囲にいれたくないなあ。
たしかになんらかの訴求力はあると思うんだけどね。
現代アートも含めて、何か別のカテゴリーを新設して欲しい。
「アート」「美術」はその融通性が精髄なのだ、という意見もありそうな気がするけど、
全てを含みこんで鵺のような姿になってしまっているのもだらしない話だと思うんだよね。
「何でもあり」は結局、発想だけの勝負に堕してしまうことになるんじゃないのか……
縛りがあることは、決して飛翔を妨げるものではないのに。
ただ、これを見て、自分のなかで誘い出されるような気分があったことも事実。
「こういうのならわたしも……」
わたしは実はお絵描きの才能はまるっきりなく、こないだ自分で描いた虎のいたずら描きを見て、
吹き出してしまったほどの腕前なのだが、幾何学模様の画面構成には色気を感じている。
定規で描ける線で構成すれば、わたしでも何とかかっこがつくかもしれない。
いつかやってみたいと思いつつ、なかなか取り掛かれないでいるが。
この取り掛かれないという部分が、アウトサイダー・アーティストになれない所以か。
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