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◇ 池澤夏樹「母なる自然のおっぱい」

この本で言いたいことはただ一つ。
冒頭のオランウータンのエピソードが、ものすごくラブリーだっ!

書いた池澤夏樹の文もいい味を出しているから、ぜひ該当箇所を全文引用したいところなんだけど、
全部写すと文庫1ページ分になってしまう。仕方がないので最後以外の部分はわたしが拙くも要約を。

池澤の友人の経験談。
旅先でたまたま時間があいてしまったので、動物園で時間を潰すことにした。
小雨がぱらついていて、園内にはほとんど人がいない。友人はオランウータンの檻を通りかかった。
そこでは、まだ幼さの残るオランウータンが一匹、りんごを美味しそうに食べていた。
友人はその様子をしばらく眺めた。オランウータンはちらっと友人を見たが、そのまま
りんごを食べ続けた。友人はなおも眺めていた。
しばらくして、そのオランウータンはちょっと困ったような顔をした。りんごを見て、
それから友人の顔を見、おずおずと近づいて来ると、

  「きみも食べたいの?」と言わんばかりの顔でそのリンゴを彼の方に差し出した。
  一人だけで食べているのはよくないと思ったらしい。彼はもちろんリンゴが欲しくて
  オランウータンを見ていたわけではないから、この申し出を丁寧に謝絶し、
  相手はまた安心して一人でリンゴを食べつづけた。

……その情景を想像すると泣けるほど可愛い。
もったいないなあ、と思いながらも、仲間でもない初対面の人間にりんごを分けてあげようとする。
なんて優雅な精神なんだろう。頭が下がる。

ところで、友人はどうやって「謝絶」したのかな。手や首を振って見せたのだろうか。
動物園の動物だから、飼育員とのコミュニケーションはそれなりに育まれているだろうが、
その中に「NO」を表すしぐさはあったのか。目の前で見たかったなあ。

他はバイオスフィア2の話も面白かった。彼は1回目の実験スタートの前に現地を見学したらしい。
その見学時点での文章が本文にあり、あとがきで、1回目の実験がある程度成功を収め、
さまざまな課題が2回目に持ち越されたと書いてある。

が、wikiで確認した所、2度目の実験は失敗に終わり、その後計画は挫折したようだ。
興味を持ったので、いずれ関連本を読んでみるつもりでいるけれど、
「風がないことで幹の強度が弱くなって熱帯雨林の木が枯れた」というのは驚いた。
たった2年で。いや、2年もたたずにそこまで弱くなってしまうのか。
人間と同じだね。人間も入院などで動けない生活をしていると、筋肉があっという間に落ちるらしい。
自然界の緻密さを、わたしは決して侮って考えている方ではないと思うけど、
それでも、想像しているよりもなお、自然のバランスは複雑なのかもしれない。

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池澤夏樹は自然や環境問題にも関心が深い作家で、時々その方向のエッセイや小説を書いている。
(エッセイ・小説問わず、テーマに対するこの人の書き方は、糾弾ではない柔らかい問題提起に
とどまる。物足りないという意見もあるかもしれないが、わたしはそこが好きだ。)
何冊か読んでいるが、この本は、他と比べて池澤本人内部での対話性が強い作品だと思った。
つまり若干コメンドクサイ書き方になっている。この人はサービスのいい作家で、
いつもはずいぶん噛み砕いて記述する方なので、今回は微妙に違う肌合い。

そしたら、あとがきにこうあった。

  文筆業では書くことと考えることが一体になっている。書くというのは普通の人が
  考えているように頭の中にあるものを紙の上に移す作業ではなく、頭と紙の間で
  いわば会話をしながら考えてゆくことなのだ。だから、書いているうちに自分が何を
  言いたいのかわかってくることも少なくない。一行目では不分明だったことが
  最後の行を書きおえる時に明確になっているというのが最も望ましい。

いつもはむしろ事前に律儀に考えて整理してから、それを紙の上に移すように
書いている人だと思うが、この本に限っては、内部の対話を主体に書いている。
たしかにね。素人がブログを書くにしても、書く=考えるであるのは時々感じることだ。
思考は、頭の内部だけだとどうしても断片的になりがちで、結論までたどり着かない。
キーボードを叩きながら、「手で考えている」という感覚になることは多々ある。
……ただ、読み手としては、「プロが“一行目では不分明”でいいの?」という微かな疑問を
抱かずにはいられないのだが……

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それから、いい言葉だと思ったこと。

  人の心は反抗や糾弾よりも共感の方に喜びを見出すように作られている。
  それを信じなければ文章など書けない。ふわっと豊かなもの、暖かい日溜まり、花の匂い、
  見ず知らずの相手の一瞬の好意、そういうものの価値が人生の土台になるべきなのだ。

これは彼の作品を読んでいるとよくわかる。この文章を読んで、
「だから池澤はああいう作風なんだな」と実に納得できる。
人生の中心に「肯定」を置きたい。多分彼はそういう人なんだろうと思う。
その点では、おそらく彼と辻邦生は意見が一致するだろうな。それぞれ強弱はあるだろうが、
二人とも祈るような思いで「人生は美しい」と言いたい人たちだと思うから。

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とにかくこの本の肝は、全てをさしおいてオランウータン。

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