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◇ 大江健三郎「洪水はわが魂に及び」

大江健三郎。「ピンチランナー調書」を皮切りに7冊読んだ。
今回の「洪水はわが魂に及び」でひとまず終了。

7冊の中で、何が書いてあるかを一応納得しながら読めたのは「取り替え子(チェンジリング)」と
「万延元年のフットボール」くらい。あとは、何が書きたいんだろうなあ、と思いながら読んだ。
特に「ピンチランナー調書」と本作は、なんというか……。

脳に障害のある息子と廃物となった核シェルターに籠り、世間から離れて暮らす男の話。
しかし、社会から脱出しようと足掻く少年たちとの交流が始まり、彼らと行動を共にするうち、
男も少年たちの一員として、機動隊の攻撃により死んでゆく。

要約では、こういう話になるんだと思うんだ。しかしなあ。
男の、社会への嫌悪はそういう形をとるまで強かったか?強かったにしても、その方向性は
ごく静かで内向しており、内心で「鯨と木との代理人」を名乗ることに留まるのじゃなかったか。

たしかに、その隠れた嫌悪が少年たちによって触発されて行動に結びついたということはあると思う。
でも、なんか……どうも安易さを感じて。これに限らず、わたしが読んだ大江作品の主人公は、
基本的には物事の外に立っている観察者でしかないのに、なぜか状況に流されて、
なぜかなぜか行動が急に過激になるんだよね。

通常、人間は流されて生きているはずだ、という反論はあるだろうけど、
そしたら、状況の結果があまりに破滅的にすぎる。
「万延元年」ではスーパーの掠奪だったり、弟の自殺だったりするわけだし、
「ピンチランナー調書」では、何だか忘れたけどやっぱり騒擾になるし、
本作では機動隊との銃撃戦。なんかどうも疑問が。

一番納得出来ないのは、何を読んでもすべてが大江健三郎であること。
単純な意味においては、彼の書く主人公はいつも(キャラクターとしての)彼だし、
常に脳に障害がある息子が出て来るし、そのことによって苦しむ妻がいる。
創作と実生活を同一視するなとはよく言われることだが、これで同一視するなと言われても無理でしょ。

純文学の定義は「自分のために書いた作品」だと思っている。
ここまで何度も繰り返すのは、やはり本人としては内的必然性があるんだろうな。
わたしにはわかんないケレドモね。
ゴッホがひまわりを何度も描いたのはわかるけれども、千住博が滝を描きまくるのはわからない。
モネがルーアン大聖堂を何度も描いたのはわかるけれども、睡蓮は描きすぎだと思う。
そういうわからなさ。

が、それより何より、登場人物が全て“同一人物”であることの方が納得出来ない。
彼と妻。そしてその他の登場人物。全て同一人が喋っているような台詞回し。ひいてはその思考。
読むたびに思うのだ。登場人物を分けずに、主人公のモノローグだけで話は済むのではないか?と。

もちろん全ての登場人物は作家一人から生まれるもので、同一人が喋っているのも根幹の意味では当然。
が、大江作品の場合は、それぞれの人物があまりにも近すぎるのが気になる。
他人同士なら、もっと全く違う思考によって動いてもいいはずなのに。
同じ言葉で語れる人なんてそうはいないはずなのに。
なんでみんな、こんなに価値観を共有できるの?と思う。
それは虚構の世界を作る醍醐味でもあるんだろうけど、わたしは安易だと感じてしまう。

名前も気になる。
大江健三郎は普通の名前をつけない。戸籍名にしても相当ひねくってあるし、
渾名として処理されるものも少なくない。実にシンボライズされた名前。
名前のシンボル化に頼るのは安易じゃないかな。
例えば、タカシという名前に大江健三郎は「鷹四」という漢字を当てた。
この名前には四男坊であることと、鷹のイメージが既に含まれることになる。
これはテクニックとしては有効だけど……なんかズルしてると感じてしまうな。
他の作家が、リアリティを重視して(かどうかは知らないが)普通の名前で勝負している所、
バードとか、勇魚とか、怪とか、森・父とかにしちゃうんだ。
ここは好き嫌いの部分だけど、わたしは居心地が悪い。

読み続けられる文章は上手いけれども……
終了することに微妙な名残惜しさは感じつつ、しかし7冊読めば義理は果たせたというものでしょう。
またいずれ読みたくなったら、その時に再度挑戦することにする。

『洪水はわが魂に及び』 『ピンチランナー調書』 (大江健三郎小説)
大江 健三郎
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