この人って……ほんと、相変わらずだよ。相変わらず長書き。
「自分にとって面白い作品」という存在はかなりある。愛せる作品もまあそこそこある。
が、作者にまで愛着を持てるということはあまりないことだ。個人的にお話をしてみたい作家なんて、
ほんとに数えるほどしかいないもんね。
しかし辻邦生には、出来るものなら何か一言声をかけてみたかったな。
この作品は、フーシェ自身というより、彼が生きた時代を始まりの始まりから終わりの終わりまで――書こうと企図したもの。
それは生物の一生に例えると、誕生からその死までどころではなく、受精卵から最後アミノ酸が分解されるところまでを
書こうとしたほどの徹底振りだ。(人間の場合、大抵は火葬になりますのでアミノ酸分解で終わらないですか)
……が、残念なことに、この作品は1巻と2巻で終わってしまった。
これはなー。実にもったいない。もし完成していれば日本におけるフランス革命関連本の
金字塔になることは間違いなかったのに。
でも反面、中断してしまったのも無理はない。
ここで冒頭の「相変わらず」の部分に戻るのだが、この人は長書きで自分の首を絞めてしまった。
いや、凄いことはほんとに凄いんだよ。絵空事のくせに、まるで見て来たように書く。
同時代の記録者が目で見たことを書いたようなディテイル。
目を驚かすような鮮やかな描写というわけではないけど、ここまで色々書いたことはほんとに凄い。
単にフランス革命、あるいはフーシェの一代記を書くということならば、省略出来ることが一杯あるのに、
細かなエピソードをやたらと重ねて、使い捨ての人物もけっこうな人数創作して……
その労力は物凄い。それが出来る能力も物凄い。
ただ、それが作品に本当にプラスだったか。
わたしはすごくもどかしいんだけど、一般的に見て、このディテイルは過剰でしょう。
この労力を、完結に向けてペース配分すれば、あるいは最後の最後まで書けたかもしれないのに。
この作品はフーシェが亡命をしてから、回想録として書かれたという体裁をとっている。
1759年に生まれ、1820年に死んだ人物の回想録。そしてバスチーユ襲撃は1889年。
フーシェの61年の人生では、時間的には丁度折り返し地点だったわけだが、何しろ
“この時点でフーシェはまだ歴史の表舞台に出ていない”
のだ!……これから波瀾に満ちた人生を送るはずの人の、まだ始まってもいない段階。
――あまり適切な例えじゃないけれど、織田信長でいえば、桶狭間前夜といったところだろうか。
「フーシェ革命暦」はバスチーユ襲撃まで、ぎっしり2段組、2巻で1300ページ超。
同じペース配分で最後まで書くとしたら、あの厚さで、最低15巻くらいは必要だったのではないか。
無理でしょう、これは。
本人の息切れがまず一つ。それから……発表の場がね。
文芸春秋に掲載したらしいけど、本人が残りをこの調子で書けたとして、これをひたすら掲載出来るかどうか。
戦国物と違って、なんとなく了解、という部分が少ない外国もの。フランス革命自体を知らない人は
少ないだろうが、その内容を詳しく知っている人はほぼ皆無でしょう。
勢い、説明部分がかなり必要になって(それでもこの説明をうまく小説的に作り上げていることに
感心するけれどね)話がこみいって来る。これは載せる方だって辛いよ。
単行本で一気読みならまだしも、細切れでは。無理だよなあ。
※※※※※※※※※※※※
……でも。それはそれとして。
やっぱり辻邦生は愛しいよ。
あんなインテリなのに、年齢も相当いっているのに、わかったようなことを書かなかった。
人生のなかに美しいものを探し、その美しさを真っ直ぐ正面から美しいと――
そんなことを書き続けた作家だと思う。
ああ、もうこりゃ愛だね。
大学生の頃、与謝野晶子と中原中也にはまって以来の愛かもしれん。
もう亡くなっていることが残念と言えば残念だが、……時間を簡単に超えられるというのが、
文字というものの神髄なんだし、これからのんびり読み続けていきましょう。
何しろ未読作品はまだまだある。……それが幸いなのか不幸なのか、迷わざるを得ないほどの量が。
文藝春秋 (1989/07)
売り上げランキング: 332516
コメント