「アラン島」についての感想というより、最近旅行記をちょっとまとめて読んで、
気づいたことがあったので、メモしておく。
ま、そんな大した話ではないけれども。
しばらく前に数冊、池澤夏樹あたりが推薦していた紀行文を読んだ。
例えばコリン・サブロンの「ロシア民族紀行」「シベリアの旅」、
ブルース・チャトウィンの「パタゴニア」、
池澤推薦じゃないけれども、今回のシング「アラン島」。
どれも、いまいち、という感想だった。
一番気になるのは、突き放し感。旅人の目線が、住人たちに冷たいのではないかと感じ、
それが優越感なのではないかと思えてしまう。読後感じる、うっすらとした味気なさ。
とは言っても「良かった探し」に終始する紀行文なんてのもしょーもない話だし、
この辺のバランスはどうなんだ、どうあるべきなんだ、と思うこと数度。
だが今回読んだ旅行記には、日本人が書いた物も何冊かあった。
それで考えたんだけど……今までの感想は、もしかして書き手が外国人だったせいなのかもしれない。
旅人が見知らぬ土地について書く。――他者が他者について書いたものを「自分」が読む。
ただでさえ紀行文というのは、微妙な距離感が錯綜する文章だ。
同じ翻訳物でも、普通の小説であれば読者は作者に手を取られて連れて行かれるままになるのは容易で、
またそう読むべきだと思う。しかし(一応)ノンフィクションである紀行文は、
現実から全く離れて読み進むことは不可能。常に主体と対象、さらに自分という視点が必要なわけで。
そのバランスはけっこう繊細なものかもしれない。
日本人が書く外国、なら。
わずかなりとも底辺に共通する何かがあるから、その辺の微妙なニュアンスが
それなりに汲み取れると思う。突き放して書いているように見えても、その背後にある
愛着とか、コンプレックスとか、色々……正確に把握出来ているかどうかは別としても、
何か漂うものを感じ取れるので、言葉だけの意味で読むことはない。
が、外国人の書く紀行文は、そもそも書き手と対象の基調音が聞き取れないので、
言葉だけを読んでいくしかない。
わたしが今回集中して読んでいるのはアイルランドの旅行記だが、同じくアイルランドの貧困に
触れた部分でも、日本人が書くとわずかな温かみを感じるのに対して、外国作家が書くと
ずいぶんと無機質に思える。共有するものがないから。
そのあたりが、多分突き放し感が気になる所以。
もちろん「翻訳」の存在も大きいだろう。
訳の良し悪しの話ではない。翻訳という作業そのもの――原語で書かれたものと、
わたしが読む文字の間にどうしても入ってくる訳という異物。それが微妙に距離を広げ、
またこれが突き放し感を増幅させるのではないか。
ちなみに旅行記は叙事、紀行文は叙情という気がする。
そうすると、紀行文は本来的には「自分語り」であって、あんまり対象側からの視点は
重視しない方がいいかもしれないんだけどね。うーん。
あれ?……ってことは、紀行文に客観的なバランスを求めるのは間違いなのか?
紀行文から対象の地域を知ろうというのは、難しいことなのだろうか。
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