100年間のベストセラーを読んで、読み手二人が素直な感想を述べた本。
ちょっと面白かったです、自分の気持ちを代弁してくれてるようで。
何しろ岡野宏文による前書きが嬉しかった。
>「ベストセラーの正体って、もしかして、ひょっとして、万が一、……ヘナチョコ?」
これだよ。きっと、おそらく、多分、これ真理。とりわけ近年のベストセラーは。
わたしは数年前に友達に言われるまで気づかなかったんだけど、
ベストセラーって、基本、本好きがこぞって買っている本じゃないんですよね。
だって、本をある程度の量、コンスタントに読む人数って限られてますよ。
普段本を読まぬ、買わぬの人々を巻き込むからこそ、爆発的に売れてミリオンセラーになったりする。
本好きだけではここまで行かない。
やっぱり、読書も味覚なんかと同じで、訓練を要するものではあると思う。
味覚だって、色々なものを幅広く食べていかなければ、まともに舌が育たないでしょう?
ずっとマクドナルドのハンバーガーで過ごす人が、繊細な味覚を持つことは考えにくい。
それと同じで、読書力は質及び量で鍛えられる。が、ベストセラーは質・量を経験せぬ人々にも
アピールする存在であるわけです。ということはつまり……咀嚼容易な、シンプルなものに
なりがちなのは、当然の帰結なのですね。
ま、「読書力」がそう大したものなのかというとそうでもない、と一応フォローをしておく。
特別繊細な味覚を持った人は大して幸福ではないだろう。その辺の店に行っても、
皆が美味しいと食べられるのに対して、彼の舌は満足出来ないだろうから。
彼が満足する為には、店の吟味とそれなりの出費が不可欠になる。
いや、そう考えると適度な舌の持ち主で、その辺の店の料理で普通に美味しいと思える人の方が
数倍幸福で便利だ。利便的幸福。でも幸福が相対的なものである以上、適度が一番いいんだよね。
さすがにマクドナルドを「ご馳走」と捉えてしまうところまで行ってしまうと人間としてマズイが。
(いや、わたしはマクドナルド、時々食べたくなって買いますけどね)
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取り上げられた本は1900年から2000年までの100冊&2004年までの9冊。
読み手は深読み自慢的なスタンスとは全く無縁。一般的な本好きの立場で語る。
(プロの書評家としてはもう少し深読みするべきかも……と思うくらいだよ)
なので、この本を読んで啓発されるとか、「おお、そういう読みもあるのか!」とかいう
驚きにはあまり発展しないけど、読んで充分にニヤニヤ出来る。
あ、念の為に言っておきますが、全ての作品を腐しているわけではない。面白いものは面白いと言っている。
その割合は決して多くはないけど。
ただ、この本は、マイナス面もあるなー。
けなされていると、「いつか読もうと思っていつつも未読の本」へのモチが低下する。
わたしの場合だと、阿部次郎「三太郎の日記」とか。志賀直哉「城崎にて」とか。
やっぱり本はなるべく先入観なしに読むべきだろうと思うから。
先入観が薄れるまで、しばらくほっぽっとこう。(というのが、怠惰な先延ばしの理由になる。)
109冊のうち、わたしの既読は20冊、そのうち好きなのをケチョンケチョンにやられて
むう、と思ったのが「風と共に去りぬ」。高校の時、一気読みをしたくらい面白かったからなあ。
まあ、メロドラマではある。文学的名作とも言い難い。でも充分楽しめますよ。
読む時期によって、というのも大きいけれど。
あとは「サラダ記念日」。わたしにとってこれは、コペルニクス的転回ものの本だった。
「なんだ、短歌ってこれでいいのか」
元々、和歌が好きで憧れていた。が、和歌は古文法を使い、筆で書くようなものだと思っていた。
つまり作ってみたくても自分では無理。ところが、「サラダ記念日」の登場によって、
現代短歌という存在を知り、口語でも短歌なんだ、ということを知ったわけで。
以来15年ほど実作を続けることになるのだから、やっぱり自分への影響力は大きかった。
「サラダ記念日」がなかったら、現代短歌の存在にすら気付かなかったかもしれない。
ただ、正直にいえば、今再読は難しいです。俵万智に関しては「チョコレート語訳みだれ髪」で
完全に見限ったということがあるからね。不倫をする人も嫌いだし。
逆に、「そうそう!」と膝を叩きたくなったのは、森鴎外「澁江抽斎」について。
わたしもこれは読むのがツライ作品だった。何しろ長いし、盛り上がりというものがないし。
澁江抽斎なる人物の人生記録を淡々と読み続けることになんの意味があるのかと……
鴎外のすっきりした文章による雰囲気だけは、10ページくらいなら読んでもいい気がするが。
それから、近年のベストセラーは総じてケチョンケチョン。悪口にも勢いがある。
わたしも読んでない癖して、売れたもん嫌いなものだから、ここらへんはニヤニヤ。
読んでないからほんとは言えないんだけど、なぜそれがベストセラー?というのが多そうだもんね。
ところで、岡野宏文の前書きにはこんなことも書いてある。
>本の世界には、昭和三十五年に謎があるのです。1960年のフォッサマグナ。
>このたった一年を境に、ほとんどスイッチを切り替えるように、読書傾向が
>「だらしな派」へと切り替わってしまうのです。戦前戦後ではないんですね。
>何が身のひるがえしを起こさせたのか、みなさんもどうぞ一緒に読みながら
>考えてみてください。
この答え、本文中にありません。けっこう楽しみにしていたのだが。
昭和35年。この本にある年表によれば、安保闘争の年ではあるのだが……
1年、と言い切っているからにはやはり何かの出来事が引き金になっているはずなんだよね。
本文中、わたしが気になったところでは、昭和35年以降ハウツー本がずいぶんのしてきている
ような言い方をしていたような。しかしそれは原因ではなくて、結果の方だからねえ。
さて、何が引き金なんでしょう?気になる。
このタイトル、「百年の誤読」は当然も当然、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」の
もじりなわけですが、わたしは当初「百年間、読者は騙され続けていたんだ!」という
告発の意味をこめたタイトルだと思っていた。
そうしたら実はそういう方向ではなく、「誤読かもしれませんが、わたしたちはこう思います」
という実に遠慮深いスタンスのタイトルであったらしい。
まあ、そう見せかけておいて、前者の意味を隠しているのかもしれないが。
考えようによって全く逆の意味になり得るんだから、タイトルと言うのも怖いもんです。
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