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◆ 滝ばっかりでいいものか。

こないだの新日曜美術館は、千住博。

いやー、わたしもそりゃ最初にあの「Water Fall」を見たときは、おっ、と目を瞠ったんだけどねえ。
たしかに鮮烈だった。白と黒のみの世界。でもそこには力があって、音さえ聞こえるようで。
これが日本画、ということが誇らしく思えた。

しかしそれから幾年月。……千住博、「滝」あまりにも沢山描きすぎではないのか。
何でもかんでも滝。着物の意匠にまであれをそのまま使うのはどうなのだ。
本人にとって大事なモチーフなのはわかる。ついでに他人が文句を言う筋合いでないのもわかる。
が、やはり同一モチーフを多用する画家に対しては、うむむ、と思う部分がある。

モネの睡蓮だってそうですよ。
何もあんなに描かずとも……と思う。数を減らして、その分集中したらどうかね?
正直言って、大して良くない「睡蓮」だって多い。でもモネの睡蓮ってだけで十把一絡げに
名作になってしまうんだから、それが気に食わない。これは、全てが画家のせいではないけれども、
でも描き散らした画家に対しても、あまりに放恣であるという感想は持つ。

こんなことを言いつつ、しかし実は最近、モネに関してはなにがなし納得するところがあったんですけれどね。
「迷宮美術館」を見ていて、モネが時間によってキャンバスを次々取り替えながら
――朝は朝用のキャンバスに向かい、時間が昼になれば昼の光のキャンバスへ描き、夕暮れは
夕暮れ、といった具合に描いたと教えられたので。

モネにとっては、その「一瞬」だけだったんだろうな、価値があるのは。
その一瞬を写し取ることだけが興味の対象だったんだろう。
つまり、写真を撮る行為にとても良く似ている。刻々と移り変わる光を写すためには、
何回もシャッターを切ることが必要になるわけで。
睡蓮の枚数の多さはそういうことだろう。出来上がった絵自体はどうでも良かったのかもしれない。
そう考えれば、出来にむらがあるのも何となくわからないではない。
ただ光の存在だけを描きたかった。そういうことだと思う。

千住博の「滝」は、どうなんでしょうね。
あれほど描くのは、どうしてなのか。至高の一枚を、究極の滝を求めているから描くのか。
それともモネの睡蓮のように、出来上がったものではなくて、滝を描く行為自体を求めているのか。

作品というのは作者から生まれた珠玉であると同時に、排泄物でもあり得る。
完成したその瞬間に作者にとっては意味を失う部分もあるのだ。
もちろん我が子のようなものだから、愛着もあれば誇りもあるだろうけど、最後の筆を置いた時に
息絶えるものもおそらくある。それを感じていれば、同じモチーフを何枚も描いても、
その度にリセットなのかもしれないなあ。

ただねえ、見る方にとっては「作品」、出来上がった物が全てですからねえ。
「いつまでも同じものを描いて……」と思うのは否めない。特に、絵画というのは、
止むに止まれぬ熱情に従って描いているのか、それとも、……単に売れ筋を描いているのか、
どちらともつかないところがある。まあ、売れ筋を描くのが悪いとも言えないんですけどね。
画家だって食っていかなきゃならないんだし。この辺が現実と理念の絡まりあい。

でも、たまには別なモチーフで大作も見たいぞ。たしかこの人は、どこだかで
龍の襖絵を描いていたような気がしたんだが、それは今ひとつと感じたような……
ああ、でもテレビで見ただけなので、実際見てどうかというのはまた全然別の話ですが。

ところで、千住博が今度襖絵を描いた松風荘というのは吉村順三の作品らしい。
いやー、思いっきり伝統建築に見える。こういうのも設計したんですねえ。
何か不思議だ。設計者の匂いを感じさせないほど、歴史の流れに溶け込んでいるような気がして。
   

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