600ページ二段組を6,7時間かけて読んだが……
かけた時間ほどの満足は得られなかったかな。
読んでいる分には、まあまあ面白く読めるんだけど、しかしその反面、頭の片隅で点滅する
疑問があったことは否めない。主に二つ。
1.文体に無理がないか。
2.これだけ風呂敷広げて、ちゃんと収束させられるのか。
1については、こちらにも原因があるのだろう、多分。
奥泉光はこれが二冊目、初奥泉が「新・地底旅行」……これは、文体を夏目漱石で、
ストーリーをジュール・ヴェルヌ「地底旅行」で、というのが売りの作品だった。
「新・地底旅行」自体は面白く読んだんだけど、しかし一冊目、二冊目の文体のあまりの相違に
違和感。順番として、不幸な出会い方をしたのかもしれない。
しかし改めて考えてみると、どうなんですかね、パスティーシュって。
面白くないことはない。夏目漱石好きだし。この言い方は通俗すぎだろ、とか文句を言いつつ
彼我の捉え方の微妙な違いを楽しむ。
でもなあ。
……わたしが小説に求める最大のものは「愉しみ」なので、読んで面白ければいいじゃん、
と言い切ってしまうべきなのだけど……そう割り切れないのは何故だろう。
モノマネの愉しみというのを寛大に認めてもいいと思うのに(実際楽しく読めたんだし)、
どうも釈然としない。
技術や器用さだけで作品を書いているように感じるのが、反発を呼ぶのだろうか。
「文は人なり」という言葉がある。内容は当然だが、そこには文体も含まれる。
たとえどんな平凡な文章でも、自分で書いている分にはその人のオリジナル、
しかしパスティーシュは――文体という自分の一部をあえて消すのはどうしてか。
……というようなことを、考える必要はないのかもしれない、単に遊び、愛着の表現。
それだけのこと、と捉えるべきなのかもしれない。
が、今回のように、二冊目がまた別の凝った文体ということになると、
一作目でパスティーシュを読んだ分、わざとらしく、付け焼刃的に感じられて、受け入れにくかった。
長くだらだら続く文章は、日本のお家芸だからアリだとは思うのだが、
こういう、筋立て自体が凝った話はむしろ簡潔な文体で書くべきではなかったのか。
2について――400ページまで読んだ辺りで、「これできれいにまとめられたらすごい」と
思ったけど、やっぱりそれは無理でした。例えて言えば、一応軟着陸はしたんだけど、
え?ここで着地?というような。
やっぱり、話を盛り込みすぎたんだと思う。活かせてない設定が色々ある。
だいたい、第一の書、第二の書という設定が必要だったか?効果的か?
志津子なんてもっと面白く使えるキャラクターだったろうに、勿体ない。
ベニスをいかにも思わせぶりに出しているが、なぜ「ベニスなのか?」納得出来なかった。
それから、手紙や手記の形で視点を頻繁に変えるのも好きではなかった。
これだけ長い小説を読ませるための工夫ではあろうが、反面逃げている感じもする。
手紙はともかくとして、手記はあまり必然性が感じられなかった。
基本は戦争もの。これのタイトルを「グランド・ミステリー」にするのは、うがちすぎだと思う。
ミステリなのかと騙された。まあ真相を究明するというような内容を含んではいるけど、
まったく「ミステリ」ではありませんわな。さらに、SF的設定もまぶす程度に付与されていて、
……これが成功していればいいけれど、わたしの印象は「ごった煮」だった。
でもまあ、面白くないというわけではない。頭では、どうかね?と思うことがずいぶん多いが、
読んでいる間はそこそこ楽しめたことも事実である、と最後に付け加えておく。
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