訳者・辻由美がゆえに読んでみた。この人の訳は好きだ。
このタイトルで荊軻と高漸離の話だと知った時は意外だった。
そもそもフランス語で書く中国系の作家が、古代中国を書くとは思わなかった。
まあ思い込みですが。
すごく短い小説なんですよね。小さめの単行本で100ページちょっと。
あっという間に終わってしまった。漢字の比率は少し多めだが、かなりシンプルな文章。
3人の人物のモノローグを主体にしていて、するする読める。
3人の人物とは、荊軻と高漸離、そして春娘。2人の男が愛する女。
荊軻は秦の始皇帝を暗殺するために弱小・燕国が送った刺客。
使いを装って始皇帝に拝謁し、献上する地図の巻物に隠した匕首で始皇帝を殺そうとし失敗。
すぐに捕まって惨殺されてしまう。
高漸離は荊軻の刎頸の友。……というと別な中国故事になってしまうが、
筑という楽器の名手だった。
荊軻の処刑後、燕を離れて諸国を流浪し、名前を隠して暮らしていた。
しかしその技量が噂になり、始皇帝の下へ召されてしまう。
荊軻の親友であることを考慮して、始皇帝は高漸離の眼をつぶし、
それで安心して身近に召して楽器を演奏させていた。
が、高漸離はその状態で虎視眈々と荊軻の仇討ちを狙っていた。
筑を凶器として使えるように、鉛を仕込んで重くしており、それを狙って
始皇帝に投げつけたのだった。
しかし盲人の悲しさ、ねらいはわずかに外れ、激怒した始皇帝によって
高漸離もまた処刑される。
――というのが一般的な荊軻と高漸離の話だが、作者はこの話に春娘という人物を登場させる。
この3人はもともと互いに尊敬しあった親友だったという設定で、
春娘は荊軻が始皇帝暗殺を命じられた後に、荊軻と結ばれ短い時間をともに過ごし、
荊軻の死後は高漸離と逃避行を共にする。
……読んでる間は面白く読んでいたんだけど、読み終わってしばらく経ったら
なんか釈然としない気分になった。
春娘、要る?ここに恋愛要素を関わらせる必要ある?
荊軻が死ぬ前に見得を切って言う言葉がこの話の「芽」かなあと空想した。
「始皇帝を生け捕りにしようと欲張ったから失敗したのだ」とうそぶくのには
昔から不自然さを感じていた。無理だろ。それは。
燕の国から。遠くまで王様を暗殺しに行って。その国からどうやって王様を連れてくるのだ。
もし暗殺の仕事のバディである秦舞陽が有能であったとしたって、
周りをみんな兵士に囲まれたところから、戻るのに何日もかかる自国まで。
いくら始皇帝を盾にして逃げても、秦にだって弓の名手はいるだろう。
現実的ではない。
この作者はそこに、死地に赴いてなお、心から愛する女との再会を望む
(無理な)執着を見たのだと思う。
だから春娘を登場させた。うん、それはまあいいと思うのよ。
だが、荊軻の死後、高漸離と春娘がくっつく状況になるのは……
しかも高漸離は荊軻と春娘がくっつく前から春娘が好きだったというのだから。
そして荊軻の死を悼む心は悼む心として、春娘と生きる幸せを吐露するのだから、
それに荊軻への罪の意識を感じるというのだから、
……これは、けっこうメロドラマですよね。
男性の友情に夢を見すぎるのもどうかと思うが、
ここに異性愛を出すことによって、なんかありきたりの話になってしまった感がある。
文章はきれい。詩的。訳も好きだ。
だが荊軻と高漸離の話を別にメロドラマで読みたくはなかった。
大前提のところでひっかかったな。恋愛じゃない、別な話を読みたかった。
そして小説部分は100ページで終わり、そのあとは著者の二か国語話者
(中国語・フランス語)についてのエッセイと、
辻由美によるフランソワ・チェンへのインタビュー、そして訳者あとがき。
なのだが――わたしはインタビューのパートまで、
フランソワ・チェンが女性だと思ってたよ!
女性だとフランソワーズか。そりゃそうか。
でも文体に女性感が漂ってた気がするなあ。こちらがそう思い込んでいたことも
大きいだろうが。以前に読んだ訳書も女性だったということも。
そもそもタイトルで「さまよう魂がめぐりあうとき」と平仮名を多用するのも
女性っぽいですよね。話も。メロドラマだし。
作者が男性か女性かは読み手としては知って読みたい情報だから、
訳にはそれを含めて欲しい。……というのは読みそこなったわたしのわがままだろうか。
まあフランソワと書いてあるのに女性だと思われたら、
辻由美としてはため息もんだろうけどね。
エッセイはするする読める小説と違って、けっこうがっつり哲学的。
読みにくくはなかったけど、それほどじっくりは読めなかった。
詩情あふるる古代小説の翻案は好きだが、そのメロドラマ化になじめなかった気がする。
しかも書いてることは格調高く、詩や音楽などの形而上学的なことなので。
もうちょっと普通ならば古代中国の歴史小説と読んで面白かっただろう。
いい小説かといわれると、うーん……だが、いい詩人かと言われれば、多分。と答える。
ほんと、文章は美しかったのよ。散文詩といってもいい。
だが、やはり荊軻と高漸離と春娘の関係性が乗り越えられなかった。
ということで。
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