この本は、切々と訴えかけている。
時々、純文学とは何だろう?と考える。まあわたしは滅多に読まないんだけれど。
純文学に対するものはエンタメ小説だよなー。そこから考えると、個人的な定義は……
エンタメ小説=他人を楽しませるために書くもの
純文学=自分の思いを吐き出すために書くもの
うーん。少々無理があるか。……が、こういう分け方も、一面アリじゃないかな。
エンタメ小説はストーリーという外形で読ませるものなんだと思う。
状況の移り変わりやキャラクターへの感情移入とかを楽しむ。
それに対して純文学は「胸の内から溢れ出るナニモノか」を語るために、
手段としてストーリーをまとわせる。
ストーリー=箱、と例えるのは突飛過ぎるだろうか。
純文学は箱の中に中身がある。その中身が大事。箱は派手だろうと地味だろうと、二の次。
こういうと、エンタメ小説に中身がないと言っているようだが……
誤解を恐れずに言うなら、ある意味、中身がなくても成立する分野ではあると思う。
中身というよりテーマだな。「これが言いたい!」というテーマがなくても、という意味で。
いや、別にエンタメ小説を低く見ているわけではない。
箱は基本大前提としては何かを入れる物だけれども、箱そのものにも存在価値はある。
(尾形光琳の「八橋蒔絵硯箱」を見よ!)
中身が入っていないからといって、箱に意味がなくなるわけではない。
……話が非常に遠回りしたが、つまり何がいいたいのかというと、
「西行花伝」は純文学なのではなかろうかと。
わたしは、歴史小説は基本的にエンタメ小説だと思っている。
「箱」の部分が大事。何がどう移り変わるか、読者はそこに一番関心を持つだろう。
歴史上の人物が、どう動き、何を思い、どんな運命の転変を味わうか。
歴史小説に期待される部分はそこだと思う。
しかし「西行花伝」では、もちろん西行の人生を追っているし、
世の移り変わりを描いているんだけれども、それよりも耳に残るものがある。
それがテーマというものなんだろう。そのうちの一つが、
森羅万象の愛しさ。
最初から最後まで、耳元で切々と訴えられている気がして仕方がなかった。
何度も繰り返し出て来る。……ええ加減、しつこいのではないかと思うほど。
「春の戴冠」では「桜草の美」。今回のこれでは、森羅万象の愛しさを繰り返す。
それから、歌の優越。
わたしはこれを、「言葉の、現実に対する優越」と言い換えたいんだけどどうだろう。
歌人の西行が主人公だから「歌」と言っているけれど、小説家である辻邦生は、本当は
「言葉」と言いたかったんじゃないかな。
この意味においては、「歌」で「言葉」の代替とすることは出来る。(ちょっと違和感はあるが。)
言葉を使って、より高い処へ飛翔すること。言いたかったのはこれではないか。
この小説的には(仏教関連だから)、それを「悟り」と言ってもいいはずなのに、
辻邦生はそういう言い表し方はしない。「悟り」と言うことで限定をしたくなかったんだろう。
どうしても抹香くさくなりますからね。
わたしとしては、この二つが辻邦生の言いたかったことなんだろうと思う。
ただ、方向が二つあることで、少々どっちつかずに感じることは否めない。
この二つが、微妙な位置関係にある……。つかずはなれず、というような。
がっちりと組みあがっていたら、もう少し気持ちよかったかな。
うーん。
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