これは、内容がエンドレス……。な本。
内田百を面白いという人はけっこう多いらしい。そういう人にちょっと訊いてみたいことがある。
別に悪意を持っての質問ではないのだが。
飽きませんか?
わたしはけっこう飽きた。もっとも、最初の一冊は選択に原因があり、反省している。
初百作品として、全集の一冊から始めてしまったから。
やはり、一作品で読むべき。作家にとっては一作品が一つの世界、完結しているはずなので。
個人全集はコレクション。一歩引いて眺めるにはいいけれども(組み合わせの妙も楽しめるし)、
出会いの作品としては良くないような気がする。
大部でもあったし、一冊目が飽きたのはしょうがないのかな、と思おうとした。
特に百は器用とは言えなさそうな作家のようだし。
何冊かをまとめた全集で、似たような内容の繰り返しになってしまったのも仕方ないかも。
ただ、作品毎に読んだものも「同じ内容の繰り返し」というのは変わらなかったんだよなあ……
「ノラや」は猫の話で、出会いから飼い始め、可愛がる様子、行方不明とその捜索、
二代目猫のこと……という随筆だが、特にその捜索過程が長い!
しかも百自身は直接捜すわけでもなくて、他人様が知らせてくれる情報に弟子や奥さんを走らせ、
「また違った」「これも違った」「泣けてくる」と繰り返しているだけなのだから、
もうそろそろいい加減にしてくださいといいたくなる。
これ、この部分の分量が半分くらいならもっと面白く読めたのではないか。
「サラサーテの盤」は忘れてしまったが、「御馳走帖」でも、百自身の食事パターンへの
言及が異様に多い。つまり「昼頃起きだして、非常に軽いものをつまんで、
夜だけはしっかり美味しい物を食べ、お酒を飲む。自分はこの一食を非常に大事にしているので、
それが崩されるのは嫌いである」……この説明、一体何回出てきましたかね?
問題は、おそらくこれらが連載であったことなのだ。
不器用な百は、身近なことしか書くことが出来ず(あるいはそういう主義によって)
非常に狭い範囲で随筆の種を探していたのだと思われる。
決して行動的なタイプだとは思えないので、当然ネタは限定されたものになり、
特に「ノラや」などは、ルポの側面もあっただろうから、結果、同じことが多くなる。
連載ではなく、書き下ろしなら、また違ったのかもしれないが……
百はそれぞれの随筆の一つ一つだけを考えていて、それを集合させた場合のことを
考えてなかったのではないか。でなければ、あれだけしつこく同じことを書き続けるのは
納得出来ない。同じことを書いて、原稿料をただ取り……
今更ですが、ずるくないですか。いやまあ、これは冗談だけれども。
正直、「阿房列車」も繰り返しである。日本全国どこに行こうと、
大して面白いことはしていない。連れはいつも同じだし、目的地に着いても、
向こうで待っていてくれる人と宴会をするか、列車の時間まで駅前をふらつくか、
食堂車で酒盛りをしているか。まあ、阿房列車の目的が「列車に乗ること」のようなので、
(内田百は「てっちゃん」である)仕方ないと言えば仕方ないんですけどね。
でも、わたしもまあ、電車の旅は嫌いじゃないから……
「阿房列車」に限っては、繰り返しでもいいことにする。これだけはそれほど飽きずに読めたし。
最初の二、三編、あるいは一冊の半分くらいなら、たしかに面白いとは思うんだがなあ。
文章は面白い。人を食ったというか……自分を含めて、諧謔の視線。多少は暖かく、
ちょっと突き放し、子供のような天衣無縫さも感じられ。
「冥途」などの作品にある、そこはかとない不気味さも。
しかししかし、何度も同じことを読まされるのには我慢が出来ない。
そういうわけで、内田百は5冊読んで、「飽きる作家」で認定完了。
気の長い人向きの作家。
筑摩書房 (2002/10)
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