※正式な表題は「エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死
(1943-1954)ジェフリー・カートライト著」
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これは、苦い本。
(ネタばれなので、未読の方はご注意。なお検索に多少配慮して、
エドウィンをエド、ジェフリーをジェフと略称する。)
好きな人には申し訳ないが、わたしはこういう作品は嫌いである。
「こういう作品」とは優しみがない話。後味が悪い。心が翳る。
最初の方はそうでもなかったが、途中から、読んでいて苦痛を感じた。
外形的なことを言うなら、わたしはしつこい描写が嫌いなのである。
比喩を使うとか、主観的なものが入った描写はむしろ好きな方だと思うのだが、
延々と、単に目に見えるものを連ねていく書き方には退屈する。
学校の傍の駄菓子屋の縦長の出窓や、ガラスケースに何が入っているかなど
どうでもいいのだ!いや、適度な描写は必要だろうが、改行なしの、びっしりつまった文字で
1ページ使わなくたっていいだろう。
その壁にはゴムの刀や、プラスチックの水鉄砲、中に白い玉の入った笛、
うつし絵の入れ墨、付け鼻、レンズの表が鏡になったサングラス、カイゼルひげ、
黒いお面、銀色のお面、ゴムのカメラ、青いハーモニカなどが天井までびっしり
下がっている。そしてガラスケースの上には、オレンジと緑の模様のヨーヨー、
小さな青い箱に入ったピストル用の赤い火薬、甘い匂いのするバブルガム・カードの箱、
パラフィン紙の袋入りのポテトチップスやセロハンの包みに入った小さなゲームが
ぶら下がった回転台、それにボール紙の札を立てた透明なプラスチックの箱の中に、
茶色い一セント玉や五セント玉が詰まっている“小児麻痺救済募金箱”などが並べてある。
(作中より)
これで4分の1ページくらいか。
こういうのを読むと、あああっ!!と頭をかきむしりたくなる。
こういう書き方は煩い。狙ってやってるんだと思うけど、煩い。
余白が大事だという思想はないのか。……ないかもしれない。アメリカ人だから。
次に嫌だったのは、書き手のエドに対する内的態度。
そもそもこの本は、“子供による子供の伝記、という体裁をもって書かれた小説”という
面倒な話であって、読者としてどの場所で見物していいのか迷いやすい。
そこにミルハウザー自身の位置も考えながら読むから、三者のバランスをとるのが難しい。
落ち着くまでに時間がかかる。というより、落ち着けなかったから読むのが苦痛だったんだろうな。
あらすじという事前の知識でも、作品のさわりでも、エドは天才と言われている。
が、ほんとにそうか?
たしかに書き手であるジェフは、ことあるごとにエドの天才を仄めかす。
しかしそれは大抵の場合、“天才だからこそのことかもしれないが……”という口吻で、
それに続くのは彼の欠点や失敗である。実際に彼が天才であることを示す現実の出来事は
唯一の例外(「まんが」を書いたこと)を除いては、無であると言っていい。
ジェフは視点も表現も11歳ではあり得ず(ここをどう捉えるべきか、未だにわからないのだが)
老成した目でエドを見ている。大人の目で見れば子供が未熟なのは当然のことで、
彼は口ではフォローをしつつ、しかしひたすら冷徹に観察し、
また、同年齢の感情としてエドを軽蔑しているように見える。
(老成した視点・子供の感情という相反する内的態度)
そこには幼馴染としてフィクション的には当然期待される、連帯感とか愛情は感じられない。
わたしは途中の時点で、対象に愛情を持たない伝記作家は失格だと感じていた。
一足飛びに結論を言うなら、ジェフはエドを素材として使ったに過ぎない。
彼が自分の内面だけで(おそらく意識的に)エドを天才に作り上げた。
伝記を書くという目的のために。作品の素材として。
だからこそ、ああいうエピローグを迎える。そうでないと完結しないから。
素材として。自分が伝記作家であるために(という利己的な理由で)。
もっと言えば、エドという存在を造り上げる、超越者になりたかったのだ彼は。
もしエドが実際に天才だというなら、不朽の名作「まんが」は要約ではいけなかっただろう。
要約したものは、もうジェフのものでしかないのだから。
ここでわたしは「エドは素材に過ぎなかった」と確信した。
ただ、こう言いきるには穴もあって、書き出しが引用されていることが微妙なんだなー。
いろんな方向からの問題がある。
1.この書き出しで傑作になり得るか?
2.伝記に対象の作品がまるまる引用されることは(ある程度の長さの散文の場合)ほぼない
(ので、伝記という形の上では、要約で紹介するしかないとも言える)
3.実際問題、ミルハウザーが作中作として「まんが」という傑作を書くのは難しいだろう
以上の三点を考えると、確信した、というのはあまりに恣意的か。
しかしさー。訳者があとがきで、この作品の「最大の魅力は何と言っても
子供の世界の描写の圧倒的なリアリティにある」と言ってるが、単にそれでいいの?
そこが最大の魅力なの?わたしはこの作品を上記のように、
「他者によって不当に意味づけられた、操り人形としての少年の話」として捉えているので、
子供の世界部分は、はっきり言ってどうでもいい……とまでは言わないが、
分量的には3分の1くらいでいいような気がするんだけどなー。
340ページまでは退屈だったもの。過去を克明に再構成するのが「すごい」とは思えない。
まあそれはそれとして、表現でいいなと思う部分はずいぶんある。
それから、ミルハウザーは時々「誤植か?」と思う単語をそ知らぬ顔で投げ入れる。
うっかりすると見過ごすような、一見似ているけれども、でも全然違う単語を。
まるで罠みたい。この辺り、気になる。ちょっと面白い。マグリット的シュール。
原典ではどうなっているんだろう。
それから、ローズとアーノルドが何なのかわからない。
理由づけで小説を読みたくはないんだけど、彼らが「何」なのか、知りたい気はする。
しかし答えは結局自分の中にしかないのだろう。解釈は色々あり得ると思うが……
答えがみつかるまで、ひたすら考えてみようという気にもなれない以上、
「何」が判明する日はこないんだろうな。
キレイもん好きには苦い本だった。
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