久々に読んだ池澤の長編。
話の骨格的には仲良し家族が夫の不倫が原因で離散し、数々の模索の上、元鞘。
という話なのだが……池澤が書くのはそういう話ではありませんな。
いや、そういう話なのかもしれないが。
夫は風車を作る大企業に勤める技術者。
チベットだかネパールの奥地に風車を立てたりしている。真面目で理系。
以前、そのヒマラヤの奥地で倒れ、当時小学生だった息子が一人で迎えに行き、
親子二人でダライ・ラマ宛に託された秘密の経典を運んだりしてる。
妻は専業主婦だが、小規模風力発電の小さな会社を立ち上げ、仲間とともに 運営していた。
生活費くらいは稼げるほどの収入があったが、年齢を重ねて円満脱退。
良き母、良き妻。スピリチュアルな傾向がある。レイキが出来る。
息子は高校生。自分の意見を持つ性格のため、小学校中学校ではうまくいかなかった。
高校は寮がある新潟県の高校を自分で見つけて「ここへ行くから」と決めて、 現在は寮に入っている。
娘は5歳くらい?面白い盛り。元気で活発。
……という登場人物それぞれの視点から「自分さがし」を詳しく描いていく。
あ、不倫相手の女の子の視点でも描かれる。
池澤がこんな話を外側の殻として書きたいのは、世界のエネルギー事情、 農業について、
コミュニティ」の世界、とかそういうもの。
彼は環境やエネルギーについて「地球について」興味のある人だから。
私はそういう部分に興味がない方なので、冷めた目で見る。
私の知らなかった「コミュニティ」の話は面白かったけれども。
池澤は書きたいことを小説ベースに乗せる腕があるよな。 面白くは読んだ。
妻・夫、それぞれが自分の中で考えて少しずつ進んでいくさまも 面白かった。
それぞれが誠実に。
とはいえ、夫の方の不倫の方は今一つすっきりしなかったけれど。
たった一度のあやまちだというのなら、動物の一種としてあり得ることだと思うが、
その後の関係を続けることについては、あんまり必然性がない気がするんだよね。
あくまで誠実な人として書いてるから、なんで不倫を続けているのか意味がわからない。
不倫相手の視点も、これも純粋で愛に生きる人だが、結局はそれだけで。 陳腐といえば陳腐。
「これだけの人が不倫するくらいなんだからよほど……」という納得がない。
不倫された妻は、家を飛び出してアムステルダムへ行き、フランスへ行き、
スコットランドへ行く。
そのこと自体は面白く、そこで自分を見つめ直すのも面白く、
彼女らが暮らす「コミュニティ」の内容も面白いのだが、
自分探しに1年以上をかけて、そこに幼児を連れ歩いていいのかなあという
漠然とした反感がある。
じゃあ転勤で子供を連れ歩くのとどこが違うのかと言われれば、
仕事と自分さがしと、どちらが上でどちらが下といえない気がするしね。
でもそれと自分探しのために年端も行かない幼児に外国暮らしを強いることとは また違う気がするし。
子どものために自分さがしを出来ないというのもそれはそれで……
でもやっぱり……
まあ全てを善悪で割り切る必要もないけれども、わたしはどっちかというと 割り切りたい方なので、
このあたりの対応に割り切れないものを感じた。
大変歯切れ悪いが、面白かったことは面白かった。
しかし内容に納得してもいない。
完全に納得出来なかったのは、あの急転直下の大団円ぶり。
あそこまでぐだぐだしていたら、最後はせいぜい後味良くといっても、
夫はおぼつかないながら脱サラして農業を始め、妻はそれを遠くから見守りながら なお外国暮らしをする。
という現状維持くらいじゃないのかと思う。 それが急転直下、元鞘ですからね。
新聞小説だからの安易さと思える。 別居の原因が不倫じゃない方が良かったかもねえ。不倫は蛇足だ。
そして、小学生にヒマラヤまで迎えに行かせるというのもファンタジーすぎる。
読んでるうちは気にならなかったからお手柄なのかもしれないけど、 ダライ・ラマまで引っ張り出すのはやりすぎだと思うよ。
面白く読んだが、感想としては批判的。 池澤は環境問題とかに意見が大いにある人だからね。
わたしはそういうテーマには興味がない。
あ、そうそう、「学校は子どもを定型に加工するための場所」というような
一文があって、それは言いえて妙かなーと思った。わかりやすいわ。
わたし自身は子どもの頃、学校というシステム自体にはそれほど閉塞感は持たなかった。 人には若干持ったが。
最初から外れた位置に自分を置いていて、その他多少の知己がいれば それでいいと思えれば、
そこまで無理せずに済むのではないか。
みんなと普通以上にうまくやろうと思うと、つらくなるかもしれない。
加工というとイメージが悪いが「標準」を学ぶ場所と捉えればそんなに重荷では ないのではないか。
悪者ではないのではないか。 学校に期待しすぎな部分があるんじゃないかな。
標準を知って、そこから自分との距離を測る。
別に自分が標準になる必要は必ずしもなくて、ただ分かっていればいい。
あるいは必要に応じて、標準であると偽装出来ればいい。
学校は別に個性や才能を伸ばす場ではないと捉える。
ただの加工場だから、学校の「場所」が世界の全てではないよと言いたい。
だが子どもの狭い世界においては、学校が全てである時期もあるからなあ……。
しかしたまに「真実の人との出会い」はあるかもしれない。
友達だったり、先生だったり、良い出会いはあるかも。
絶対あるとは限らないが。 なので、学校自体には善を期待せず、
人との出会いを見逃さないようにだけ 努力するということでいいんじゃないか。
まあ今時の学校と、昔の牧歌的な(だからといって平和なだけの場所ではなかったよ)
学校社会では違いがあるだろうけれども。
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