血で書いている(というと誤解を生むが)土着的な「精霊たちの家」を読んだすぐあとに
これを読むと、そのあまりの違いにクラクラする。
これまたなんと頭で書いている小説。観念的小説。
そしてつくづく思うが、
なんでこんな小説を書いている奴が割腹自殺をするのか。
不思議でしょうがない。
そんなに酔生夢死に憧れたのか。少年の純粋に憧れたのか。
頭で考えることしか出来ない自分が呪わしかったのか。
まあわたしは本作を読んで気持ち悪かったですよ。
年齢で全てが決まるとも思わないんだけど、年代的には戦後の逆洗脳の影響を受けている世代のせいか。
なりふりかまわぬ、お上万歳の姿勢が大変に気持ち悪い。
握り飯を献上して、ご嘉納されても拒否されても腹を切るって。
一体何よ?どんだけ酔ってるのよ。無意味だ。
三島由紀夫はその“純粋性”の醜さも愚かしさも存分に書いていると思うのに、
冷静な大人の視線も十分持っていると思うのに、
でも自分はまさに勲のように死んでいくんだね。
なんでそういう行動になるのかね。そういう行動をするんなら、たとえ嘘でも、
勲をもっと高らかに謳いあげてもいいんじゃないかね。
美化した方が自然なんじゃないかね。そうしないと美しく死ねない。
美しく死ぬことが目的だったんじゃないのか、三島由紀夫。
無意味さを十分わかっていての行動なのか。
虚無的に死ぬのはいくらでも例があると思うが、無意味に(ということは愚かしく)死ぬことは
あまりにも自虐的なのではないだろうか。喜劇にすら映る。
疑問は膨らむばかりなのだが、そしてここまで疑問に思ったら、
通常の自分の行動パターンであれば、関連本を読んでとりあえずの知識を仕入れるのだが、
……とても気持ち悪くて関連本を読む気になれない。わたしは触らない。
多分永遠に謎のままであろう。
「春の雪」は大変に腹立たしく、「奔馬」は大変に気持ち悪かった。
それでも「春の雪」は名作認定だけれども。
さて次の「暁の寺」はどうなるか。
![]() 奔馬改版 豊饒の海第2巻 (新潮文庫) [ 三島由紀夫 ]
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