仙台市博物館で開催中。あと1ヶ月くらい。
あと1ヶ月もあるのになんでこんなに混んでるんだ?駐車場の空きがないという状況は久々。
平日なのにねえ。もう少し日程が押し詰まってからならわかるが。そこまで人気でしたか、高野山。
と、ブツブツ言いたくなるほどの混み具合と、時間がなかったことと連れがいたこと(これは完全にこちらの事情)により、
しっかり性根を据えて見たかと言われれば全然。全身全霊を100とするなら、60くらいの気合で見た。
申し訳ない。せっかく遠くから来てくれたのに。
なので、語るべき言葉もあまりないのだが、とにかく見て良かった!のは
「八大童子立像 セイタカ童子」だ。
ポスターで見ても全然ひっかからなかったんだけどね。むしろ小粒感があって、大したことなさそうと思っていた。
玉眼で、さらにそこに眸の輪郭をオレンジ色で取ってる。これは当時のおそらく先端の技術。
この存在感はきっとそのせい。しかし現代のわたしはそんな技術に驚くほど純真ではない。
いろいろ見てるしね。……と、頭ではむしろそう思いたい。
古い時代にこそ目新しい技術だっただろうけど、それに手もなくやられるようでは現代人としてどうなのか。
だが視線の正面に立つと。
怒るでもなく笑うでもなくこちらをキラキラした目で見てくるセイタカ童子は。
生きてた。間違いなく生きてた。相手は木だが、もしも触れれば間違いなく人肌。
その目でまっすぐこちらを見て、息遣いさえ感じられる。
怒るでもなく笑うでもなく。なんだろう、あの目は。悟りでもなく哀れみでもなく。
好奇心というほど激しい気持ちの流れではなく。
無心で目を瞠る、その瞬間。
ずーっと見てた。白線の内側に入って。(良い子はマネしちゃいかん)
だってあの白線の外側じゃ全然彼我の距離が不満だよ。ガラスケース越しに最短で視線を合わせてこそ存在を感じる。
敢えて似てるというならば、興福寺阿修羅像の存在感と似ている。時代も技法もだいぶ違うけれども。
生きてる仏像として。
感動はこの一体。でも一体でも感動があればそのエキシビは当たりだ。会わせてくれて良かったと感謝が出来る。
同じシリーズの「清浄比丘童子像」も人間らしさがあった。
同じく「指徳童子像」は表情が特異で目に留まった。こちらは南北朝時代。
総じてみれば、やはり鎌倉・南北朝は技巧が目立ってくるね。その分小手先感も出てくる。
「五大力菩薩像」(絹本着色)の絵は、平安中期らしいんだが、眼もくわっとしてれば輪郭線もけっこう強く、
膝や足指を折り曲げた力感の表現、そういうのを見てるとむしろ江戸時代の浮世絵と直結している気がする。
そしてなぜか宝相華の模様だけ描き方がやたらと可愛くて繊細。
なんか不思議な絵でじーっと見ていた。
あとインパクトがあったのは不動明王座像。鎌倉時代だそうだ。
来たブツの中ではだいぶ大きい方。まずとにかく目と歯がキラキラで、なんだっけ?目が玉眼で歯が水晶?
玉眼はもう技術として確立しているけど、歯もあんなにキラキラ光らせて、びっくりするね。
左のこめかみで結んで垂らした髪型も物珍しく。
あのキラキラぶりはただごとではないですよ。開眼時はよほど人目を驚かせただろう。
思わず笑っちゃったのは四天王立像で、特に広目天増長天がとても幼児体型。コロンとしてて可愛くて。
こういう守護神が付いててくれれば嬉しいなあ。ブツとしてもちっちゃいしね。
ピンチの時暇な時、呼ぶとコロコロ出てくる。……いかん、犬か何かと間違えている。
展示品としてはしょっぱなだけれども、弘法大師座像もまあまあ。
しかしわたしのなかでは、弘法大師は口八丁手八丁で、はったりも大変にきかせる人というイメージなので、
この座像の印象とはだいぶ違う。
座像は穏和な人相ですよね。こんな穏和だったかなあ。もっと激しい人であった気がする。
ということで。だいたい40分。
中の下くらいの期待感で行って、数字でいえば75点くらいだろうか。
もっとちゃんと見れば、それともっと人がいなければ80点は超えていただろう。
少々悔いが残る。まあいずれ現地で見よう。
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