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◇ 小林恭二「短歌パラダイス」

面白かった。

短歌は実作していた時期がある。
きっかけは……ありがちな「サラダ記念日」。あれで「口語で和歌を詠んでもいいんだ!」と目から鱗。
それでも実作はけっこう長く続き、細々とでも十数年やってたかなあ。
ごくごく短期間だが、井辻朱美さんとこの「かばん」の同人にもなってたこともある。

でもまあ、短歌に触れないようになって長いですよ。
百人一首や古今和歌集あたりの歌はたまに思い出すけど、現代短歌はもうね。
俵万智はやはりきっかけになった人だったので、好きだったし当時著作はだいぶ買ったが、
その後の彼女の私生活に反感を持ったので忌避するようになった。

この本は現代歌合を書物にまとめた本。
平安時代の歌合せだったら、源氏物語とかでイメージは出来ていたが、現代短歌で歌合せなんて盲点。
口語短歌の時と同じくらいの盲点。びっくりする。

出版が1997年なので、今ではとても「現代」短歌とは言えないかもしれないが。
この本に登場する歌人で名前を知っている人は半分くらいかな。
考えてみれば、まったく現代短歌に馴染みのない人には、この本はやっぱり面白くないかも。
全然知らない人が何だかわけの分からない31文字を並べて悦に入っている――馴染みにない人にとっては
そんな程度でしょう。

しかし若干かじったわたしには、予想以上に面白かったのであった。

そもそもわたしには鑑賞力がナイ。現代短歌をそれほど数多く読んでいたわけでもないので、根本的に経験値が不足。
それに加えて「世の中のすべては好きか嫌いかだけで良い」という価値観なので、
一読し、好きか嫌いかというだけで満足。
いや、わたしはそれでいいと思ってるんだけれども、しかし自分には全然ピンとこない歌でも、
別解を示されて、あ~、そういう読みか~と思えるのはなかなか新鮮だった。

これが解説本とかになると、何しろ相手が一人で、しかも上から目線の解釈をカマしてくるもんだから、
「わたしゃアナタの読みは取りませんよ」と言いたくなったりもする。
ところがこれは、5人対5人の、まあつらつらと言い合う口合戦。同じチームでも意見が違ったりして、
その中のどれかは自分の読みに近いんだよね。

本職?の歌人たちも他人の歌の鑑賞についてはそうそう本職ではなさそうで。
作歌能力が高いということと鑑賞力が高いということがイコールではないんだということがよくわかった。
作歌力も鑑賞力も高いという人もいるんだけれど、別々の観点から評価すべきだね。
評論家=創作家ではない。

この本では、小林恭二が司会というか、舞台袖で自分なりの意見をごにょごにょ黒子っぽく呟いてる立場で、
表立ってガンガン言うのは当の歌人たち。20人の歌人を2チーム、あるいは3チームに分けて
(日によってシステムを若干変えた)
作者と同じチームになった人は味方の歌を褒め、相手を貶す。
その毀誉褒貶に、けっこうまた遠慮がないのが……読んでて若干コワイのだが(^^;)、
やっぱり物なんて作ろうという人は我執が強いんですかねえ。
まあでもこんなところでナアナアでやっていたら全く意味がないしね。

一番難しい立場の「判者」は高橋睦郎が務める。
この人たしか大御所だし、重みのある人じゃないと判者なんて出来ないもん。
で、判者は中立の立場で当たり障りなく物事を決めていくかというと、やっぱり高橋睦郎も詩人だもの、
そういう日本的な平和の中に収束はしない。それでも忖度はだいぶしたんだろうけど。

つまり、歌に対して、同僚たちによる援護・攻撃が行われ、小林の内心で同様の小林なりの評価が行われ、
最後に高橋御大が「これこれこういう理由によりこっちの勝ち!」と宣言する。
重層構造。またこの重層構造が熱を生んでくるんだね。

こういうの、もっとがんがんあればいいのにと思った。中学生の教科書にのせてみたい。
高校生の古文の授業で、百人一首→現代短歌→実作→発表(ここハードル高いなー)→批評まで、
やってみせたら相当しっかり短歌をやったことになるよね。
まあ国語の先生も鑑賞力があるとは思えないし、高校生にはもっとないだろうし、作品の鑑賞と個人攻撃とが
ごっちゃになっちゃう恐れもあるから、多分実現はしないだろうが。

じゃあ他人の歌でそれをやれないだろうか。
宿題として題を出して、既存の和歌・短歌を競わせる。
自作だと自意識のモンダイがあるけど、既存の歌ならそんなことはない。面白いとは思う。
しかし既存の歌を探し出してくる時間は、現代日本の受験生諸君にはないか。授業として面白いと思うが。

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