これは「物語の価値を教える」本。
本屋大賞を受賞した当時は、この作品は店頭にいくらでも平積みになっていた。
「第一回の本屋大賞」というところに面白みを感じて、手にとってみた。
何とか賞受賞といっても、それが面白さに直結することはそれほど多くはないけれど、
売り手と買い手の中間の存在である本屋さんが選んだものなら、
どこか毛色の違ったものが読めるのではないかと思った。
立ち読みを中断せざるを得なかったのは、途中で(文庫版なら44ページ)、
ぼろぼろ泣いてしまったからだ。わたしは相当涙もろいので、地下鉄で本を読みながら、
などというシチュエーションで目が潤むということはそれほど珍しくはない
(ので多少泣いてもいいか、という方向に耐性はある)のだが、さすがに本屋の店先で
滂沱の涙を流していたら、それはまずいだろう。「ヘンな奴がいる」ということで
営業妨害になったら大変である。立ち読みは続行不可能となった。
普通の人はここで買って帰る。が、わたしの場合「字の本は文庫で買う」が掟である。
買おうかどうしようかじっと考えて、……これは間違いなく数年後、文庫になる本だ。
文庫になりそうもない本なら、ここで買うのに迷いはないが、やはり掟は尊重すべきではなかろうか。
迷った末に、買わずに帰った。その後は続きを読むのを楽しみに、立ち読みもしなかった。
「これはいい話に違いない」と思っていたので、文庫化が楽しみだった。
近年これほど読むのを楽しみにしていた本はない。
その本がとうとう文庫化された。店頭に並んでいるのを見た時は「おっ!」と声が出た。
ほくほくしながら買って帰った。だが、これだけ前段階が長くて、これだけ期待した作品で、
それでもその期待に見合うものを与えてくれるだろうか?
「期待と評価は反比例する」……一般的に、この鉄則は絶対に正しい。少数の例外はあるけれど。
読む前はちょっとコワかった。
期待した以上に、良い作品だった。
泣ける作品が良い作品だ、なんて全然思っていないけれど、とにかく読み終わるまでに
ティッシュが二枚必要だった。
ごく普通に語っているのに、ふるふると震えるような繊細さが漂う文体は一体何なのだろう。
乾いているのにしっとりとしていて、沈鬱な設定なのに、ほのかな明るさがあるのは何でだろう。
久々に「創作物の優越」を感じた。こういう作品があるからこそ、フィクションには存在価値がある。
要素が精緻に、強固に組み合わされた、美しい結晶体のような作品。
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(side:B)
わたしはどこか一つが突出している作品よりも、バランスの美が好きだ。
映画でも絵でも、おおむねそれは変わらない。
このバランスを生み出すために、どれだけの落とし穴を避けなければならないかを考えると、
空恐ろしい気がする。たった一言でズレは生じてしまうもの。
最後まで落とし穴にはまらずにたどり着けたら、それは奇跡的。
細い細い綱の上を歩く、綱渡り。
バランスが見事な作品だと思う。要素ががっちりと組み合っている。
記憶能力にリミットがある老学者。
世間の片隅で静かに生きている母と子。
「美しい」数学の世界。
ポピュラースポーツとしての野球。
4番目の要素である「野球」、これをもってきたことが大きかった。
教授と、母と子と、数学。これだけで終っていたら、頭と心だけの話になったことだろう。
たしかにそれはそれでまた良さはあったはずだ。だが、野球を出したことで話が(作中の)現実と繋がった。
それどころか、読者の現実とも繋がっている。野球は昨今若者に人気のスポーツだとは言いがたいが、
年齢的に江夏豊にピンとこない人だって「野球のすごいスーパースター」をイメージするのは簡単。
のみならず、野球自体がしっかり内容にからんでいるのも見事だ。
数字を愛する博士が、様々なデータで構成される野球を愛するのも自然だ。
1992年当時の10歳の少年が野球好きなのも自然。野球の試合を見に行く、というイベントになるのも自然。
野球カードという付属物の存在、背番号に寄せられる愛着、そして誕生祝いのグローブ。
この話のために野球というスポーツがあったのでは?と思うほどピタリとはまっている。
もちろん「美しい」数学の描き方も見事だ。作者は数学が得意な人なのか?そうでもないのか?
数字が嫌いな人なら、ああいう風に憧憬をもっては書けないだろうな、と思う。
数学の証明を「レースのような」と表現する感性が光る。
ただちょっと残念だったのは、数学関係の山場の一つである「オイラーの定理」
……あそこがピンとこなかったこと。フェルマーの定理は異常にわかりやすい公式のお蔭で、
特にひっかかることもなく読めたんだけど。
数学、苦手だったからなあ……。赤点ばっかりやったわ。
あそこはオイラーの定理じゃなきゃ駄目だったのだろうか。
4つの主要素には入れないけれど、博士と義姉の関係も多分相当重要なんだと思う。
でも、今ひとつその重要性がピンとこないかな……。それは、わたしの読み取りの問題かもしれない。
あんまり恋愛小説に興味ないしなあ。
ところで、来年一月に映画が封切りらしい。これが問題だ。
寺尾聰も、深津絵里もきらいではない。監督は「阿弥陀堂だより」がきらいではなかったから、
印象は悪くない。……が、ここまで精緻に作った話を、どんなに気を使ったとしても、
映画用に直すのは困難なことではなかろうか。
吉岡秀隆が成長したルート役で出て来るという時点で、原作とは違っているのだろうし。
ああ、不安だ。映画を見るべきか否か、なかなか決心がつかない。
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