「あらすじで読む名作」の類は正直カスだと思っている。
――思っているが、わたしのオデュッセイア経験は、はるか昔の世界文学全集の子ども版に
おそらくその9割を負っているのであった……。
10年くらい前にギリシア悲劇として「アガメムノーン」や「オレステイア」とかは読んで
それはそれである程度の感銘を受けたものだが。
(ちなみに読むきっかけは先ごろ亡くなった蜷川さん演出のギリシア悲劇の舞台。
あの音吐朗々たる芝居を(テレビで)見て。それをイメージしながら悲劇の台本を読むと大変楽しめる。)
わたしは当時自分が読んだ子ども版(といってもまあ小学校高学年から中学生くらいが対象かと思われる)を
相当出来が良かったと思っているので、以来数十年、あまり不満を持ってなかったんだけれども、
今回大人版を読んでみて、……やっぱり違うということを感じました。
これはこれで、本来は詩の朗誦として全然文字を媒体としない状態で伝わって来たんだろうから、
せめて韻文形式で読むのが一番原型に近いものだと思うが、
岩波文庫版は小説形式。まあしょうがないかね、韻文形式だととたんにハードルが上がるから。
しかし枕詞の多用なんかで古代ギリシア気分が盛り上がっていた。
“ばら色の指した暁の女神”とか、“神にも紛うオデュッセウス”とか必ず修飾語がついていて
それが古代感を盛り上げる。
こういうのを包括的に味わわないと読んだと言えないではないか。
「あらすじで読む名作」がカスだという所以。あらすじが入口になるという考え方はたしかにあるだろうが、
そこで終わってしまうのがほとんどではないのか。
やはり文学作品はそのものを読んでこそ、だと思う。
まあわたしは「源氏物語」も古文では読んでませんけどね。
そのものと言った場合、海外作品は原文で読まないと!という考え方もあり得るし、
特に詩なんかは。とか色々あるんだけどね。
しかし、古代ギリシャ語の原文で読んで楽しめというのもハードルとしてはひじょ~~に高い。
ま、そこまで極端なことはいいませんから、あらすじで安心してはいけないということは肝に銘じましょう。
そもそも今回、なんで「オデュッセイア」を読んだのかというと、
梅若玄祥さんのイベントから。
第11歌「ネキア」を読んだけど、……うん。これを能の脚本に翻案するのは難しいわ。
有名な死者が入れ代わり立ち代わり出てくる。その数が多すぎて、これ!という人に絞れない。茫洋感。
日本人としては、箸休め的な幕だと感じてしまうよ。
能にするなら、やっぱり話を刈り込んでしまいたくなる。3人くらいに削りたくなる。
ここらへんは多分日本人にはやっぱりわからないところだ。群像劇の伝統がない。多分ない。
![]() オデュッセイア(上) [ ホメロス ]価格:972円(税込、送料無料) (2016/7/30時点)
|
葡萄酒色の海という比喩が……
読むたびにひっかかっている。ギリシャの海はひたすらに青くて、どこが葡萄酒色なんだろうと思う。
朝とか夕方に、紫色になる時間帯があるのか?
コメント