2ページ目で、この明晰な人が好きだ、と思った。
明晰な見方。理性的。科学的。ほとんど恋に落ちたと言ってもいい。
だが、さらに数ページ読んでふと我に返る。
一人称で語るのでついうっかりするが、これはハドリアヌスが書いたものではなくて、ユルスナールの創作物。
明晰なのはむしろユルスナール。
しかしそれからどのくらい読み進んでも、ハドリアヌスとユルスナールは、寸分の狂いもなく重なったまま
乖離しない。歴史上の人物を書いているのなら、通常は語り手の陰に書き手の姿が透けて見えるものだが、
「ハドリアヌス帝の回想」における語り手はハドリアヌスそのものであって、他の精神の存在を感じない。
ユルスナールが書いているのだ、と意識しようと努力してもハドリアヌスだった。
もっとも、これはハドリアヌスについてわたしの知識が多ければ違ったかもしれない。
ハドリアヌスと言えば――わたしにとってはかろうじて個別認識が出来る皇帝。
数多いローマ皇帝のなかでのまともな人。
拡張政策のあとの引き締め政策。ハドリアヌスの壁。大巡察旅行の人。アンティノウスへの愛。
その程度しかない知識で書き手との乖離を感じないといっても失笑ものかもしれないが、
読んでいる中で、ユルスナールとハドリアヌスは一体となって動かない。
書き手の力量を感じる。乗り移っている気がする。
それには訳者の力量も大きいと思う。
多田智満子。以前にも何度か見かけている名前である気がしたが、実際読んだのは
「ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト」……いや、読んでないのかな、これ。
ブログに挙げてないってことは読んでないかなー。読んだ気もするなー。念のためリストに入れとこう。
閑話休題。
ところで多田智満子、これが「生まれてはじめて手がけた翻訳」ってどういうことか!
後書きの最終節にそう書いてあって驚愕した。
これは……百戦錬磨の翻訳家の、代表作であるべき作品になっている。それが初めての翻訳作品とは。
すさまじい。
ローマ時代らしい文章だ。と、「プルターク英雄伝」と、より直接的にはギボンの「ローマ帝国衰亡史」
くらいしか読んでない(ギボンは18世紀だっちゅうねん)のに言える筈もないのだが、
ローマ人らしい口吻を感じる文章。いやはや。驚く。
この作品では、
ハドリアヌスの(ユルスナールの)明晰さにまず驚き、
ハドリアヌスとユルスナールの一致ぶりに驚き、
訳者の腕に驚き、
最後の最後、Wikiを見てユルスナールが女性ということに驚いた。
驚きっぱなしの作品だった。
名作。わたしはこの明晰さを愛す。ユルスナールは今後読んでいく。
![]() ハドリアヌス帝の回想〔2008年〕新 [ マルグリット・ユルスナール ] |
たっけー。名作なので文庫化希望。いや、白水社は偉いけれども。
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