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『山尾悠子作品集成』

これは「凄い」本。

今まで読んだ本の中で一冊としては最大級の文章量じゃないだろうか。単行本、サイズが大小あるうちの大、
それが後記の最後まで763ページ、小さめのフォントとそれなりに詰まった行間でびっしり。
装丁は布張り型押し、重さは1.2キロ。「集成」のタイトルは伊達じゃない。
もちろん凄いのはその重さではなく、内容だが。

幻想文学である。ぎりぎり中編か?という長さのが4作混じっているが、残りの28作はみな短編。
そのうちの10作は、ページ数にしてほとんどが4,5ページというほんとに短いもの。
しかしこの短さが曲者である。短編集かと侮るとエライ目に遭う。というか、遭った。
この短さに、内容が恐ろしく凝縮されている。読むのに2週間ちょっとかかった。

もう1ページ目から、白色矮星並みの密度を持った文章を読まされる。
作者が何を書き始めるつもりなのだか、こっちはどういう心構えをしたらいいかわからぬうちに、
<薔薇色の脚>などというものが出て来る。これが劇場の踊り子で、しかも

  見事に発達して脂ぎった下半身の、常人の二倍はある骨盤の上に、
  栄養不良のため異様に痩せて縮んだ上半身が乗っている畸型的な体躯

                              (夢の棲む街より)

という非一般的で不気味な姿なのだから、もう連れて行かれるがままになるしかない。
こういう作品はひたすら文字を見落とさないように丹念に辿っていく方法しかとれず、
それでやたらと時間がかかるのだ。

言葉の繋げ方が凄い。
幻想文学にはまったく詳しくないが、そういうものは、わりあいに特殊な(そして画数の多い)
言葉を使って独特の雰囲気を形作るというイメージがある。「いかにも幻想文学風」という感じ。
(例を挙げられず申し訳ない)
だが山尾悠子は、普段使っているような言葉を繋げて独特の世界を描く。
引用した文だって、せいぜい「畸型」がちょっと珍しいだけで、あとはごく一般的な単語で出来ている。
それなのに出来上がるのは、異様な<薔薇色の脚>。
美しい材料(単語)を使って美しいものを作るのはそれほど驚くことではないが、
山尾悠子の文章は、卑金属を金に変える錬金術みたいなものだ。

その術を使って、作者は非常に硬質な、静謐な、異様な世界を作る。
そこはきらきらした輝きや、不気味さ、イメージの展開とその動き、全てをひっくるめて
生み出されたものそのものに意味のある世界で……、
それだけに「内容」を求めて読む人は、どこまで行っても徒労を感じるかもしれない。
訳がわからない。……そう、その通り。でも訳がわかることだけが価値ではない。
目の前に並べられる世界の美しさを、ミニチュアの精巧さに溜息をつくように眺めればいいのだ。

以上は主に短編の話。中編はもう少し「訳がわかる」……ので、読みやすい。
短編と違って、ある程度筋があるし。もっとも、その分緊張感が崩れるというか、
贅肉がついて柔らかくなるというか、凄さはあまり感じなくなるんだけど。
でもごく普通の読み手としてはこのくらいの方がアリガタイ。

実は、ごく普通の読み手であるわたしは、幻想文学の類は苦手だ。
好きか嫌いかと言われれば、好きだとは言えない。基本的には訳がわかるものの方が好きだ。
それに、この作品の場合、不気味さの度合いが好みよりも強い……。<薔薇色の脚>もそうだし、
娼館の屋根裏部屋に犇くホリマリン漬けの胎児に似た天使の塊、なんてのもダメだ。
時々この類の不気味さが顔を出して来るので辛い。

でも嗜好は嗜好として、やっぱりこの本の完成度には呆れる。
ただ、「街の人名簿」「巨人」「蝕」「スターストーン」「黒金」あたりは
読みながらなんだか違和感があった。無理に作っているように思えた。どうなんだろう。

最後の付録として、作家が何人か文章を寄せているんだけれど、その中に佐藤亜紀がいるので笑った。
別に笑う必要もないのだが、佐藤亜紀はつい2ヶ月くらい前に初めて読んだ作家で、
「この人が山尾悠子の本に文章を寄せるのはよくわかる」というような作風だから。
非常にささやかながら、共時性。

読書を始めたばかりの人には薦めない。
気の短い人にも薦めない。
詩が読めない人も……ちょっと向いてないかもしれない。
幻想文学という言葉に反応する人には必読。とにかく凄い本です。

山尾悠子作品集成
山尾悠子作品集成

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