美術館、博物館のエキシビはわりとチェックしているはずなのだが、うっかりと情報を入れ損ね、
3月も半ばになってから知ったので、あと数日で終わるという時に滑り込みで行って来た。
どうせそこまでいいもんは来てないだろうなーと思いつつ行ったのだが、
前半部は予想よりも更にひどくて、これで1300円かい!坊主丸儲け!と憤っていた。
最後の部屋の展示品がまあまあ良くて、からくも踏みとどまった感じ。
でもエキシビタイトルに「震災」をつけたエキシビで、ここまで入場料を高く(というか普通に)
設定したものはわたしが行ったなかでは初めてかも。単に祈念だから、別に収益の一部を復興費として
寄付しますとかそんな話では全くないんだよね。
展示品と入場料を天秤にかけて、……やはり坊主丸儲け的。
まあとにかく前半部は小粒感が並みじゃなかった。
舞楽面五面がまあまあ良かったくらいか。納曽利と二之舞(咲面←えみめんと読むらしい)が特に。
二之舞は、おっさんの人生を感じさせる笑み。特に皮肉に笑っているわけでもないが、
やはり純度100%の笑みとは言いかねる。複雑なものを含む。
納曽利は金泥のドングリ眼で鬼っぽい。あの青い肌は、そもそもまだらだったのだろうか。
それとも年月を経るうち、シミになっていったのか?いずれにせよ、いい青だった。
いや、造型的にはマヌケでなおかつコワい系ですが。
太子孝養像や合掌像は、博物館のガラスケースの中で見たって意味がないと思うんだよ。
その建物の中で、その雰囲気の中で見るからこそ、若干の意味がある。
造型的にはそこまでじっと見るもんでもない。孝養像や合掌像自体はあちこちにあるし。
わたしは、岡倉天心とその弟子たちというコーナーは腹立たしかったね。
そりゃたしかに、岡倉天心と法隆寺は縁が深いんだろうし、弟子たちも聖徳太子を
モチーフにしたものを作って、しかも法隆寺蔵なんだから、法隆寺展に出てきても仕方ないかもしれないが。
でも法隆寺展として期待する方向のものじゃないよなあ。
虚心坦懐に見れば、高村光雲とかもあったし、モノとして良かったのかもしれないが、
でも今出来でしょ。という心を抑えられない。
こういうところで水増し感があったので。入場料が割高に感じた。
まあでも今出来というのは同じでも、最後の部屋の絵画とかは見てて面白く満足出来たので、
要は見ごたえがあるかどうかが大事。
後藤純男「残照」
横目で見た時はてっきり平山郁夫だと思い込んだ。平山郁夫は青と金だけど、これは黒がより強かった。
木立の間に覗く五重塔と本堂を金で描いているんだけど、その金の具合が、まさに夕暮れの一瞬、
本当にこんな風に見えたんだろうなと思わせる絵。わたしが見ててもその場所にいた気にさせられた。
吉岡堅二「炎上」
一瞬、単に焼けてしまった金堂6号壁画の写しかと思った。だがそこに炎が書き込まれていたんですね。
どうだろう、このモチーフは……。あまりにもそのままな気もするし。
わたしが写真で見ているつもりの金堂壁画より、西洋風の顔立ちに寄っていると思った。
鈴木空如「法隆寺金堂壁画模写」
6号壁画模写はずいぶんあちこちで見るけど、4号5号は初めて見たかもなあ。
はっきりシルクロードの香りを感じさせる。6号壁画よりさらに舶来風。
清々しいというか、すっきりしている。好きだ。
ただ、ここまで舶来風だったのかは確実じゃないように思う。模写だけに、写し手の意識が
そちらに傾いていると、実際よりも舶来風に写されてしまうこともあるかも。
高村光雲「定胤和上像」
これは生けるがごとし。「鑑真和上像」と比べて――まあ比べたらさすがに負ける気がするが、
「鑑真和上像」と比べるという意識が働いた時点で、相当出来のいいもの。
じっと見てると表情が動く気さえした。高村光雲はたしかもう一点来てたけど、こっちが圧勝。
「十六羅漢図」
これは鎌倉時代の屏風。一面の下段に羅漢図、上段と中断は経巻の断簡がデザイン性を持って
貼られている。それが八面。
羅漢図の絵自体はさもないものと見えたが、この断簡が一体どういうものだったのかに興味をそそられた。
断簡ていうくらいだから、ちゃんと一巻の経文として揃っていたものをわざわざぶった切ったものでも
ないと思うが、いくら断片的なものとはいえ、経文を屏風に仕立て直すというのは何か違和感がある。
法隆寺蔵ってことは、注文主も法隆寺だと感じるんだけどね。それとも他の誰かが作ったのか?
経文を、いわば室内装飾に使うという方向に行くのかどうか。一般人ならわかるが、寺が。
断簡は少なくとも三種類使われていて、そんな廃品利用みたいなことを……
「灌頂幡垂飾」
字面では何だかわからないだろうが、吊り下げて使う金属の飾りでした。
ちょっと違うけど、灯篭というかランプ様のデザインが7、8個縦に繋がってるの。
このデザインが、モダンでエキゾチックで驚く。どこかアールヌーボーっぽくも見えて、
このまますぐ何かのモチーフに使えそう。
飛鳥時代の飾り物は他に何点か来ていて、総じて良かった。
……だが幡の残欠は、言うたら単に古い布の破片ってだけなんだから、複数持って来なくても良かった。
あとは最後に、真打。
「阿弥陀三尊像」
“法隆寺の阿弥陀三尊像”と言って思い出すアレではないけれども、これもなかなかいいものでした。
等身大よりもわずかに小さいくらいか。
これはでも、その美しさによってというより、疑問を感じて、頭の部分でじっと見ていた。
脇侍と中尊の顔が……けっこう違いますよね?
脇侍は、わりとのっぺりとした顔をした、調和のとれた作風。衣紋や全体のプロポーションも
穏やかに落ち着いている印象。でも中尊は目が相当に長い。薬師寺の薬師三尊を思い出した。
あんな風に見開いた目ではなくて、半眼かあるいはほぼ閉じている感じだったけど。
目の長さがあれだけ違うものは、本来はセットではなく、制作年代も違うものなんじゃないかね?
衣紋も、脇侍はあくまでも軽やかに彫られているのに対し、中尊はずいぶん盛り上がっていてゴツイ。
そう思って見ると全然別のものに見えて来る。
台座のデザインは同じだけれど、それは後で合わせるということも出来るし、3体のそれぞれの台座を
見比べると何か摩耗具合が違う。
と、色々疑問を感じながら見ていた。こういうの、オーディオガイドを借りれば
詳しい情報があるのかもしれないけど、……わたしは“見ること”にオーディオガイドは
むしろマイナスだと思うので、よほどのことがないと借りない。
見ることは確認作業じゃいかん、というのが持論。
ポスターに使われていた地蔵菩薩立像は、たしかに一番大きな仏像だったし、悪くはなかったけど、
そこまで何かを語る気はしなかった。少なくともわたしには。
奈良にも行きたいなあ。ここ十数年行ってない。昔よりもだいぶ観光客も増えたのかなあ。
鄙びた飛鳥の里とか、とても好きだったのだが。そのうち行こう。ピーチ航空に乗って。
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