この人の小説は「続明暗」「私小説」に続いて三作目。
基本的には好き。すごく好き、といってもいい。
その上で気になるところはありつつ、面白く読んだ。
事前にエミリー・ブロンテの「嵐が丘」の翻案だというのは聞いていたのよ。
読んでみて、たしかに「嵐が丘」ではあるけれど、語り手の立場が違うことによって
根本的には別な小説になっていると思った。まるっきり同じでも困るけど。
先に、気になるところ。
この人は「私小説」でたっぷり自分を書いたと思う。あれは事実を基にしているだろうから、
時期や状況に関してはそっちで読んでるんだよね。
ちょっと前に「私小説」を読んだ身には同じことの繰り返しがちょっと。
繰り返しというのはちと厳しいか。「私小説」には東太郎は出てこないしね。
文章がしっかりしているし、内容は興味をもって読めるから読んでて面白いが、
これを長々と書いて本筋に繋げるのは、小説書きとしてはちょっとあざといか?と。
上巻はもう図書館に返してしまったので正確なところは忘れたが、
上巻の半分近くは長い前書きだった気がする。
タイトルが「本格小説」というのは正直言って意味がわかってない。
そもそも「本格小説」の定義って何?その意味がわかってなければタイトルについている
意味がわかるわけがないのだ。
よう子の造型に疑問を感じる。
みそっかす扱いされることについては作者は念入りに念入りに書き込むのに、
美点についてはほとんど触れない。
東太郎についてはそれまでの行きがかり上、熱愛になっても納得できる。
しかし雅之ちゃんについては違和感があったよ。
そこまで愛される要因があったか?実生活においては、いわくいいがたいものを感じて惹かれ、
要因云々は野暮だと思うけど、フィクションでその要因を書けなければイカンのでは?
雅之ちゃんはいつの間にかよう子を好きになっていて、しかも程度を越して熱愛している。
そこまで情熱的な人物には描かれてなかったのでは……
春絵に対する反発しか。
まあ「嵐が丘」でもリントン?とキャサリンが恋仲になる過程がしっかり描かれてなかった。
……気がする。中学生の時読んで以来な気がするから、内容は当然おぼえてないが。
あと強烈な違和感だったのが、終盤の語り手の交代ね。
最初、著者→若者→主たる語り手という変遷をたどったんだから、若者→著者で締めるのは
妥当なのかもしれないが、なぜか下巻の半分くらいで若者の部分が30ページだけあるんだよ。
400ページの下巻の半分まで主たる語り手→(30ページ分だけ)若者→
(その後350ページまで)主たる語り手→若者→1ページだけ(あとがきとして)著者。
ええ~と思ったよ。ちょっとだけ若者になる部分は章を変えるでもなく突然変わるから、
それまで没頭して読んでいたのに、あまりに突然すぎて揺り起こされた気分になった。
あとがきはあとがきではなく、作品の一部だと思うし、それを1ページで書くのもなあ。
最大の「いかがなものか?」は、最後の種明かしというか……そこまで書かんでええねん。
そこは別に玉虫色でも良かった。ナシでも良かった。
「嵐が丘」とこの作品の最大の違い――語り手の存在をもっと微妙なラインで
味わうだけでよかった。
とはいえ。
面白く読んだ。この人の文章は好きだ。じっくり読める。
あれだよね、ある時代の富裕階層の家族の姿を書きたいのよね。
多分志向としては「嵐が丘」よりも「風と共に去りぬ」の方に近い気がする。
家を取り巻く環境、そこで育つ人々の関わり合いを書いていくわけだから。
まあ「嵐が丘」もそうですが。というか、こうざっくりいうと小説の7割くらいは
そうかもしれないですが。カタログ的な人間模様。
魅力的だったのは、
1.富裕層の生活
2.語り手の人間性
3.当時の軽井沢の風俗
ですかね。
東太郎とよう子の愛、よう子と雅之ちゃんの愛には特に感銘は受けなかった。
よう子の美点がよくわからないから、説得力がないのよね。
「嵐が丘」と比較して、親子2代の執着の部分はないんだね。
あとはやっぱり主たる語り手の存在が違う。「嵐が丘」という頭で読んだら
こちらは若干ミステリ的要素もあるかもね。
面白かった。不満はあれども。
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