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◇ 飯塚くに「父 逍遥の背中」

坪内逍遥は教科書で名前を見て、その後「小説神髄」をなんとか読んだ程度。
そしてその中身はまったく覚えてない。二葉亭四迷の「浮雲」と並んで、
この頃の小説はまだ整ってないんだなあとしか。
なので坪内逍遥の人となりについてはまったく知らない。興味もなかった。
この本を読んだのは森まゆみが強力にお薦めしていたから。

娘が父の、いわゆる家庭内の姿を描いたエッセイ――と思っていたが、
読み始めたら思っていたよりやたらと情報量が多くて驚いた。

まずこの人は養女なんだそうです。鹿島という家に生まれて坪内家に養女に入った。
結婚して飯塚。
そしたらそもそもこの鹿島のご両親も情報量が多かった。

父・清兵衛は大阪天満の酒問屋鹿島屋に生まれ、親族の東京鹿島屋へ養子。
そこの娘と結婚。しかし商売に身を入れず道楽三昧。
いろいろなことをやったけど写真道楽がかなりのものだったらしい。玄人はだしとか。
というか、写真館まで開いたそうだから、それは道楽ではありませんね。
150坪のスタジオを作ったとか、引き延ばし技術がない時代に
等身大の九代目団十郎を撮ったとか。

そしてキリンビールがポスターにするための「美人写真」を公募し、
それに応募する作品のためモデルを頼んだのが14歳の芸者、ぽん太。
すでに美人の誉れ高く――
熱烈な恋。そして清兵衛は養家と縁切り。
ぽん太と夫婦になって、くにの他に11人の子どもが生まれ、
写真館を生業にしようとしたが上手く行かず、生活は困窮していく。

しかし困窮しているとはいっても、子ども一人一人に乳母をつけているような生活で、
清兵衛は根っからのお大尽育ち、ぽん太は根っからの世間知らずだったと思われる。
子どもは12人。養子に出したのも1人にはとどまらない。

が、清兵衛が事故で親指を失ったのがきっかけで、ぽん太は芸者へ復帰。
大卒初任給が80円の時代に、500円を稼いでいたという。

清兵衛はふきさらしの能舞台に体の不調を押して笛方として出演、
それがもとで病気になって死亡。ぽん太もそれから1年を経ないうちに亡くなる。
長谷川伸の戯曲「明治の女」のモデルとなった夫婦だった。

生みの親の方だけで1冊書けてしまいそうなほどの情報量。
しかしこちらはこの本の前史でしかないわけですからね。

そして驚いたのが著者が養子になった理由。というより逍遥が養子をとった理由。
逍遥のもとには全部で4人子供がいたらしいです。その全員が養子。
その養子たちを、逍遥が提唱する「日本舞踊界革新の実践者」にしたかったらしい。

そう書くと良くも悪くも功利性が高い親子関係という気がするが、
くにの二人の兄と一人の姉は逍遥とその妻のそれぞれ甥、姪に当たるので、
情愛ありきの結びつきを考えた方が良かろうと思う。くに本人は血縁関係なし。
そして長兄と長姉、次兄と本人をゆくゆくはそれぞれ結婚させて……
という青写真もあったらしい。

実際の逍遥の姿を描く前にこれだけの情報量は衝撃だった。

本題であるその後の内容も興味深く読んだ。
逍遥は真面目な人だったようですね。教育熱心でもあったし、逍遥もその奥さんも
ほんとに良くしてくれたらしい。

詳細は実際に読んで欲しいが、語り手であるこの人もちゃんとした人だなあという印象。
この本は語り下ろしによって書かれた本だが、著述した段階で、この人は
90歳越えているそうですからね。逍遥について語ることをずっと宿題と感じていて、
ようやく実現したということらしい。

明治のきちんとした人の文章だった。面白かった。

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