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◇ 清水義範「読み違え源氏物語」

清水義範はずっと前に何冊か読んだ記憶。そこまで悪くはないがわたしには……
という感じだった。

タイトルからして源氏物語についてのエッセイかと思ったのよね。
源氏物語をツッコミを入れつつ読む。そういう読み方も楽しそうだ。
ツッコミの方向さえ自分に合えば。

が、エッセイではありませんでした。小説。
源氏物語のモチーフをいろいろに使った短編集。翻案といえばいいのか?

それはたとえば、夕顔の巻を「殺人事件として考えてることも可能ではないか」
と論じる登場人物2人の掛け合いであったり、
六条御息所を現代の大女優として設定してその心理を描いたり、
左大臣家と右大臣家の対立を現代の会社組織内に置き換えて語る話だったりする。
全部で8編。

話としてはまとまっているけど、わたしは源氏物語を使う意味はほとんど感じなかった。
これを読むなら源氏物語を読んだ方がはるかに面白い……って、
そういう話でもないんだろうけど、翻案小説を作るんだったら、
本歌を超えはしなくても、独自の面白さがなきゃ意味がないと思うんだよ。
でも「これをこんな風に変えてみました」という点しか売りがなくて、
変えた結果に面白みがないのであれば、まあ書かなくてもいいかなあ。

たとえていえば、DIYで作るある種の物に似ている。

DIYでいろいろ工夫して作っているのは、youtubeでもなかなか楽しいコンテンツで
わたしも好きだが、なかには首を傾げるようなものがあるでしょう。
1000円の純正品を100均の材料で作る!みたいなやつ。で、実際に動画を見ると、
見た目もいまいちで材料費に700円かかる、というような。

まあ考え方だけれども、300円安く作れるにしても見た目が変、
作る手間、と考えれば700円でこれを作る意味なくない?
工夫するのが楽しいのはあるだろうけど。
200円で作れるってのならこの見た目でも納得することが出来ても。

人それぞれなので、善悪の話ではないが、わたしはそれなら純正品で……と感じる。
それと同じ気分をこの本を読んだあとに感じた。

葵上の日記としての体裁で書いた一編と、源典侍の昔語りの一編はわりと素直な翻案。
が、それが良かったとは感じなかった。
この人、文章が美しいわけではないんだよね。
葵上の日記として書くのだったら、文章としての美しさも欲しいところ。
そこを不満に思いつつ読んでいた。

一番不満だったのは、藤壺と源氏の話をアラビアンナイト風に書いた一編で
(藤壺=フジツボーシャ、源氏=ピカリッペという命名)
フジツボーシャが何も考えてないおつむの空っぽな女としていること。
こうなると源氏物語の翻案にする意味がまったくないよね。
戯画化は手法としてありだと思うが、それが笑えなければ結局仕方ないじゃない。

清水義範はとにかくパロディ・パスティ―シュで売る作家だと思うが、
それが面白く思えたことがほとんどない気がする。
旅行エッセイがあるらしいので、それを読んで終わりにする。
エッセイなら面白いだろうか。

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