書くつもりになればそれはそれは長い……しかし思いのたけを全て書くとなると
ものすごっく長くなりそうだし、何かと大変なので一般的な話を。
わたしは与謝野晶子訳→「あさきゆめみし」→田辺聖子訳→ときて、
今回円地文子訳を読んだ。原文は読んでない。
与謝野晶子訳は初めて読んで源氏物語にハマった訳だし、
「あさきゆめみし」はマンガでここまで描けることに感心した。
田辺聖子さんはわたしに(その作品を通じて)古典を教えてくれた先生。
それ以来数十年ぶりで読んだ源氏物語。感慨深い。
円地訳の感想は、古典が上手いなあということ。
源氏物語に先立ってこの人の作品を何作か読んだけど、
現代語訳だけではなく、平安時代を舞台にした創作も書けるほど
自家薬籠中のものにしている。時代ものを書こう!という力みを感じない。
さすが詳しいなと思ったのよ。
まあ他を読んだのも数十年前だし、田辺訳は何度か読み直しているとはいえ、
田辺訳は翻案の気配が強く(それをいえば与謝野訳も翻案だそうだが)、
スタンダードとなるとやっぱり違うもんだなあと。
そうしたら円地訳は円地訳で、原文にない話も入れてるというじゃないですか!
どういうことやねん!
どこが創作でどこが隅まで丁寧に訳してくれている部分か、こっちにはわからないんじゃ!
そういう根本的な問題点もありつつ、そう、ここらへんを物足りなく思っていたのよ、
という点を書いているのがうれしかった。
細かいところは忘れてしまったけど、冷泉帝とか夕霧という
大事なのにわりと書き込まれていない周辺人物について、
今まで読んだことのない部分がちょこちょこあった気がして面白かった。
そのうちのいくつかは多分創作だろうな。
紛らわしいので止めて欲しいとは思うけれども、書いた内容は面白かった。
10巻を1年くらいかけて呼んだので、印象がフレッシュだということもあるけど、
宇治十帖は新鮮に感じたなあ。
わたし、与謝野訳は宇治部分の最後読んでないんだ。物語が終わるのが切なくて。
田辺訳も一旦雲隠で終わってしまったし。あとから宇治十帖の部分も出て
蔵書だけれども、多分一度しか読んでない。
そうか、宇治十帖はこういう話か……。
今までぼんやりと、匂宮のことは一度の過ち(から続く2、3度の逢瀬)だと
思っていたけど、浮舟も相当揺れていましたね。
そして匂宮にしても薫にしても、けっこうイヤなヤツでしたね。
匂宮は源氏と違って単に女好きだし(源氏が単なる女好きではないともいいきれないが)
薫は聖人君子と言われているわりに、ちょこちょこ取りこぼしがある。
大君の健気さは打たれるけれども、それにしても頑迷すぎると思わないこともない。
宇治十帖は別人の作のように感じましたね。わたしは。
ストーリーを追うことに良くも悪くも気を使っている。よりエンタメ小説。
その分、余韻というか背後に含まれているものが少なく感じる。
まあ原文を読んでから言えって話ですけど。
しかし源氏は面白いねえ。しばらくぶりに読んでも面白い。
今後、死ぬまでには林望訳は読もうと思います。あと谷崎源氏も読みたい気が。
実はサイデンステッカーの英訳も若気の至りで買ってしまった過去があるのだが、
さすがにそれは読める気がしない。
英文であることがまず乗り越えられない壁だが、厚くて大判で、
寝転がって読めない。寝転がって読めない本は読めない。
あ、あと角田光代訳は……本人は読まず嫌いなんだけど、
池澤夏樹個人編集の日本文学全集に入っているから読まないでは済まないんだろう。
出来れば読みたくないのだが。
全集をなんで読むかというとコンプリート欲ですからね。仕方ない。
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