オルハン・パムクは4作目。
「イスタンブール 思い出とこの町」を読んで終わりにしようと思っていたが、
表紙に惹かれて「赤い髪の女」を読むことにした。
この表紙の人(写真か絵か?)、「オスマン帝国外伝」においての
ヒュッレムの女優さんに似てるよね。
中を読んでいくと、ほんとにその人をモデルにして書いたんじゃないの?
という記述もあってちょっと楽しかった。
それはそれとして――久々に小説を読んで動揺した。
その部分を読んだ時に動揺した。いやいやいや、そんなことをしちゃあかんやろ!
(ストーリーの転換部分に触れています)
最初はいつものようにじっくり話が進んで、まあこのままいくんだろうなと
思っていたら、爆弾的展開。
大学進学の学費を作るために井戸掘りのバイトをしていた主人公が、
深い井戸(となるはずの穴)に落ちた親方を放置して逃げてしまう。
いやいやいや!無理だってそんなこと!
直前に、初めて本人(主人公)が穴掘りをする描写が入っている。
底から見上げる空の小ささ、遠さ。取り残される恐怖を芯から味わったばかり
だというのに。
親方が底から上がろうとして、(多分主人公の不注意から)
落ちてしまい(おそらく)怪我をしている or 瀕死でいるかもしれない
親方を放って、上から覗いてみることもせずに逃げてしまうなんて!
逃げようとする、という精神状態までは理解出来る。
逃げかける、というところまでも理解できる。
まだほんの子供だしね。16歳か17歳か18歳か、その辺のはず。
しかしどういう状況になっているしろ、
今すぐ助ければ助かるかもしれない、逆に主人公が助けなければ
親方は井戸の底で死ぬしかないという状況において、
井戸の底の様子を見さえもせずに、その場所を後にして、
今まで住んでいたところの片づけをして荷造りをし、
駅まで行って電車に乗って家に帰り、誰にも言わずになかったことにしてしまう。
それは無理があるんじゃないかと。
井戸の外から手助けしないと絶対底から外へは上がれないから。
自分がいなくなってしまうと、たとえ親方が無傷でも上がれない。
人通り皆無の場所。つまり親方が落ちた時点では殺人者になる可能性は
低かったのに(最悪、親方が死んでいても過失でしかない)、
置き去りにすることで人を殺した(かもしれない)という責任を一生負う。
何より、そういう道徳的なことは置いておいても、「あっ、落ちた!」という
瞬間に井戸を覗きこまない人がいるわけないと思う。
それは反射的な行動で、あれこれ考える前に発動する人間の自然な好奇心。
物音がしたら振り向くくらい確実に自然なこと。
それをせずに家に帰り、それから20年30年なかったことにして過ごす。
あり得ないんじゃないかなあ。
まさかその後、さしたることもなしに大会社の社長になってしまうという
ストーリー展開はトンデモだと思うけどね。
親方が助かったら助かったで何か言ってこないわけはないと思うし、
死んでしまったら死んでしまったで「あの手伝いの小僧はどうした」と
警察が動かないわけはないと思う。
読んでいる最中は上記の動揺を鎮めて後半は後半で落ち着いて読めたが、
今振り返るとここは乗り越えられないなー。
なんでこう極端な話にしたんだろう?
でも上記のことはわたしがこだわっているだけであって、物語の主題は
オイディプス・コンプレックス。
総じて今まで読んだオルハン・パムクの中で、一番エンタメ的な作品だったかな。
ストーリーがあるので読みやすい。まあちょっと寂しげだが。
ただなー。もういいかなー。
あの動揺の場面が衝撃的過ぎて、その他のストーリーが
今となってはどうでもいいような気がしている。
こういう気持ちになっては、興味は続かないな。
最後に「イスタンブール」を読んでオルハン・パムクは終わりにしよう。
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