かげろう日記の作者を紫苑と名付け、さらに時姫や町の小路の女までが
キャラクターとして出て来る観念的な小説。
観念的?哲学的?
なんかねえ、読み始めてすごい意外だった。
かげろうの日記は「美貌で頭が良く、自意識も強い女性が夫との葛藤に明け暮れた人生を
書き綴る」というスタンスで、今まで読んだリメイク作品はみな踏襲していた。
いうたら何百年も続いて来た妻の愚痴、というか。
が、室生犀星のこの作品はだいぶ違った。
ものとしては違わないんだけど、感触が。
なんて表現したらわからないんだけど、観念的。
――この「観念的」をネット辞書で見たら、
具体的事実に基づかずに頭の中で組み立てられただけで、現実に即していないさま。
と書いてあるんだけど、この定義には疑問。
「現実に即していないさま」というところまでいくのか?
頭の中で考えられたもの。理念的なもの。抽象的な思念。という意味で
「観念的」を使っているのだが。
三島由紀夫も観念的だと思っている。
紫苑の心情をまず事細かく観念的に書いて行く。
原作が「夫との葛藤」を主たる内容とするものなので、ここまで観念的に書いたものは
他に読んだことがない。これが新鮮といえば新鮮。
通常だと女の情念の典型として書かれる主人公が、より自分を保つ、高めるという
純粋に意識の高い(昨今言われる意味ではなくて)女として気高く描かれている。
で、しばらくいくと突然三人称の小説だったのが一瞬一人称になり、
……おや?おやおや?これはもしかしてブレではないのか?と疑問に思う。
その後、原作には「町の小路の女」という名で伝聞として出て来るだけの夫の愛人が、
これはこれで独自の重要なキャラクターとして主役を張る章がある。
そのうち時姫もちらっと出て来るが、時姫のキャラクターは面白みがない。
作者の愛情もない。
作者の愛情の大部分は「町の小路の女」に向けられてる。冴野という名前。
出会うわけはないんだけど、紫苑と冴野との交流も重要。
超自然的な出会いがあったりする。
変わったかげろうの日記だと思った。全体的にバランスが崩れている気がする。
室生犀星は詩人で、詩人が物語を書くとこうなるのかな。
古典のリメイクとなると、その大筋は通常はその筋にのっとったものになりそうだが、
これは換骨奪胎した、ある意味では別なものになっている。
これはこれで面白かったが、好きかどうかというとそれほどは。
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