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◇ 小林恭二「電話男」

さくっと読めてけっこう面白くて、感想を書こうと思って、しかし書かないまま1週間放置してたら、
内容をまるっきり忘れてしまっていた。完全に。
さくっと読めるものはさくっと忘れる。これ真理。
なので、「電話男」の方だけはもう一度読みました。(これは文庫1冊に「電話男」と「純愛伝」、中編が2編入っている)
2度読むなんてとても珍しいこと。まあ短いだけにね。

2度目に読んだ時は、「感覚」と「知恵」の対比とか、人間にとっては知恵はどういう存在か、とか、
もっと哲学的に読まなければならないのか?と思ったのだが、
結局読み終わる頃には、「特にそういうムズカシイことは考えず、偽史ものとして楽しめばいいのではないか」
ということで落ち着いた。
「知恵」の定義が相当あいまいだし、感覚に生きるU研の消滅を自分たちの反面教師として語り始めたわりには
単に奇跡譚にしてしまっていますからね。むしろ援用しているというか。

この作品は1985年。うわあ、30年以上前かあ。
30年前ということを考えると、内容が今のネット社会を予見しているような……これは誰でもいうことだと思うけど。
電話男って、ひたすら寄り添って話を聞いてくれる、そういう存在なわけですよ。
電話線によって繋がっている、人と繋がりたいという欲求があって生まれてきた存在。

今のネットがまさにそういう存在ですよね。わたしがこんなブログを書いているのも、
誰にも言えないこと(こんな内容のないダラダラした話を聞いてくれるような、どんな暇な人がいるというのだろう)を、
せめて誰かの目に触れるような形でこっそり残しておきたいと思うからであって。
そうでなければ単に日記でいい。

日記ということで思い出したが、この本の中で作者は「自分のだけのためなら何も言語化する必要はないわけです」
という一文を書いているが、それは明確に誤りだと思う。まあこれは“電話男”の意見だけれども。
それが正しいなら、世の中に日記と言う存在は絶えてなかったはずだ。
全ての日記が自分だけのために書かれたわけでもないと思うが、読まれることを想定していない日記も当然ある。
人間は、自分自身のためにだけでも言語化を志向する生き物だ。作家がこんなこと書いてちゃイカンな。

ほんとこの人は偽史ものが好きですね。世界の造物主でありたいんですかね。
まあ物書きは基本的にそういう、無から有を生み出すところに魅力があるんだと思いますが。
こないだ読んだ「ゼウスガーデン盛衰史」が1987年。
今後のタイトルもちょっと面白そうなので、順番に読んでいくつもり。

電話男 (福武文庫)
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